「死者1万人」と、数で言うのは簡単なんだけど、その1万人のそれぞれに人生があり、物語があった。それが、断たれてしまった。 同じく、「自粛」を求められた側にも、それぞれの人生があり、物語があった。それが奪われてしまった。2020年からの2年間の間に、わたしたちは、すっかり、他者の人生を、「不要不急」と切り捨てることに慣れてしまった。
戦争に参加した国は、例外なく殺人率が上がるという。人殺しが「当たり前」になるから(「日本の若者は殺さない:下」朝日新聞夕刊、2003年4月5日)。戦争に参加した国の殺人率が上がるの、今なら、感覚で納得する。他者の人生を「不要不急」とジャッジすることに慣れてしまったかのように見える今なら。他者の人生を「不要不急」と切り捨てるのは、一見おいしそうに見えるまんじゅうなんだけど、それは毒まんじゅうで。 他者の人生が、その人にとってはかけがえのないものであったことを思い出し、奪ってしまったものをどう償うか、そのことを考えないといけない。
命は失われてしまったら取り返しがつかない。命を最優先にすることは当然。だが、それは、命以外のものを「不要」と切り捨てることを正当化するものではない。命以外のものを、今はちょっと待ってください、科学者が解決策を見出すまで待ってください、必ずや償いますから。それこそが、進むべき道だ。「不要不急」とジャッジを始めたが最後、際限のない「削り合い社会」(荻上チキ氏の造語)が待っている。高齢者の命が「不要不急」とジャッジされかねない。その兆候を、わたしは西浦博さんへのインタビュー記事に見出した。
この記事で、西浦博さんは、次のように述べた。
僕らの学びや人生を豊かに作り、この国をずっと支え続けてきた親や祖父母世代が後期高齢者です。そうやって育ててくれた高齢者に繋がった命綱を黙って外すことなんて私たちには絶対にできない。
わたしは、この文章に、恐るべきことが起ころうとしている兆候を見出す。高齢者が過去いかに活躍してきたかを説かないと、高齢者の命を「不要不急」として切り捨てられかねないと西浦博さんは考えたのだろう。西浦博さんにそのようなことを考えさせることに、恐ろしさを感じる。
最後に、数字で数えるのが当たり前になってしまった、ひとりひとりに、それぞれの人生があり、物語があったことを突き付ける一曲をシェア。