ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

関西クィア映画祭の「コロナ禍における関西クィア映画祭について(声明)」が秀逸

 まあ、まず読んでくださいな。わたしがあれこれ書くよりもよっぽど早いですから。そうだそうだ、と、わたしは何度も何度も膝を叩いた。

kansai-qff.org

 この文章の中でも、わたしは2点に絞って書く。「ハウスは必ずしもホームではない」ことと、「何が必要不可欠かはマジョリティが決めている」の2点。

ハウスは必ずしもホームではない

 「ステイホーム」と言われる。それに続けて「おうちがいちばん♪」や「家でゆっくり」なんて文章がついている。これにわたしはどうしても反発を覚える。家がホームだなんて、いったい誰が決めたんだい?自ら家庭を作って、その家庭が円満に行っている人たちにとっては、家はホームだろう。だけど、そんな人たちばかりではない。これから自分の家庭を作るライフステージにある人。家庭の中で暴力を受けている人。あるいは家庭の中で疎外されている人。そんな、家がホームではない人たちのことなど無視しているからだ。そんな人たちにとっては、家から出て「ホーム」を作ることが必要なんだ。

 今もてはやされているオンライン。だが、そのオンラインは実力以上に買われ過ぎている。家が安全なホームである人なら、家からネット接続してオンラインで参加できるだろう。家が危険な人が、家からネット接続して自分のセンシティブなことについて発言できるかどうかは考えたほうがいい(このことは、荻上チキさんがTBSラジオでも言っていた)。

(以上、「なぜあえて対面での映画祭が必要なのか」に対応)

何が必要不可欠かはマジョリティが決めている

 そして、それに関連して。家がホームではない人たちのことを無視できるマジョリティが、家庭の外に新たにホームを作ろうとする試みを「不要不急」とレッテル貼りをする。マジョリティである、自分の家庭がホームである人たちにとってはそうなんだろう。だけど、そうやってレッテルを貼るとき、誰かを自覚せずに切り捨てている。切り捨てても自分にとっては何の痛みもないから。他人が痛いのは百年でも平気だから。これに限らず、とかくマジョリティな人たちにとってはいらないものを「贅沢」扱いする人はまま見かける。わたしも一回くらいはそんな人と論争をするはめになったことがある。そんな論争をした当時は気づかなかったが、マイノリティにとって何が必要不可欠か、マジョリティが一方的に決めることそれ自体が傲慢だ。

(以上、「誰にとっての「不要不急」か」に対応)

さいごに

 以上の議論は、さしあたり性的マイノリティについての話だった。しかし、これは、極めて普遍的な話である。そんなわけで、わたしは、ぜひこの文章を多くの人に読んでほしいと願う次第である。