なぜか扱われるのはイスラム風刺画ばかり
ポッドキャストで荻上チキsession-22の過去の放送を聴いていた。この間聴いたのはこのエピソード。
このエピソードで、フランス在住のライター・髙崎順子さんが気がかりな指摘をしていた。このエピソードが放送されたころ、週刊紙「シャルリー・エブド」に掲載されたイスラム教を風刺する風刺画を「表現の自由」の教材にした教師が殺害される事件が起きた。そのことに関連して、表現の自由を扱うときに、題材にされるのはイスラム教を風刺した風刺画ばかりであるとの指摘をしていた。シャルリー・エブドはあらゆる宗教の風刺画を載せているのに。髙崎順子さんの周りの人の間で、声高には言えないものの語られていることとのことであった。
「not for me」が非対称性を持つこともある
イスラム風刺画を教材として扱った教師は、そのような風刺画を見たくない生徒は一時的に教室の外に出ていてもいいとの「配慮」もしていたとのこと。ところが、先ほどのイスラム風刺画ばかりが教材として扱われる事実とも兼ね合わせると、イスラム教に一見「配慮」しているように見えても、その実イスラム教を「排除」する結果になっている。
「表現の自由」は守らなければならないが
表現の自由は守らなければならない。のであるが、表現の自由を行使した結果として、マイノリティに対する差別や偏見を助長することになってしまうこともある。必ずしもマイノリティを差別する意図があったわけではないだろうが。結果としてマイノリティへの差別を助長することになってしまうときに、表現の自由と平等をどう調整するかは、かなり繊細な調整が必要になる。単純に、「いやなら聞かなければいい、見なければいい」で片付けるわけにも行かず、かといって差別だからやめろで片付けるわけにも行かない。
日本でも、類例はある。たとえば、キズナアイ。NHKが2018年のノーベル賞受賞者を開設するサイトで起用した。これが、女性を性的な対象として見ることを助長しているとの批判が殺到した。キズナアイを起用することそれ自体は表現の自由の範疇ではあるのだが、結果として女性差別に加担してしまった。表現の自由を行使した結果ある種の非対称性を持ってしまうときに、その非対称性をどうするかの問題は決して他国の問題ではない。