ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

慶應義塾大学の食料支援、女子であるというだけで大学進学に不利であることの手当だってば

 はてなブックマークに書くには長すぎるからこっちに書きますけど、貧富の軸のほかに女男の軸、地方在住・首都圏在住の軸があって、「貧」はもちろんのこと「女」「地方在住」も慶応義塾大学進学に当たって不利な属性になる。「女の子をわざわざ東京に出す必要はない」なんて考えのひとが結構いるわけだ。それで、「地方在住」の「女子」にも手当をすることにした。それだけのことである。

 ちなみに、慶応義塾大学の学生数の男女比は2対1。男子のほうが多い。女子が慶應義塾大学に進学するのは難しいことを示している。

 これは慶應義塾大学の話ではなく東京大学の話になるが、東京大学ともなると埼玉県内からの進学さえ男女に差が出てくる。埼玉県には県下一の難関進学校として男子校の県立浦和高校、女子校の県立浦和第一女子高校がある。両校は3㎞と離れていないが、東京大学への進学者数は浦和高校が浦和第一女子高校の3倍。女子は受験する前の段階で足を引っ張られている。「首都圏在住」の「男性」には見えない世界。

togetter.com

ベニヤ板のような「人望」よりも、ひとにどれだけ仕えられたかを追い求めたい

 ここ何週間か、「わたしは人望ありませんから」とあちこちで言ってきた。自虐ネタを披露していたつもりだった。だが、つい最近、FEBCの番組「生誕95周年記念・朗読「真夜中に戸をたたく キング牧師説教集」より 9 めだちたがりや本能」を聴いてから、誇りを持って「わたしは人望ありませんから」と言いたくなりつつある。

www.febcjp.com たぶん明日(2024.3.29)までは聴けるはず。

 番組を聴いて、「人望」なるものを追い求めることに虚しさを感じた。ひとに仕えて、ひとの僕になって、その結果人望が追い付いてくることはあるが、最初から人望なるものを追い求めたり人望なるものを基準にすることはバカバカしくなった。ベニヤ板のようにぺらっぺらの人望ならいくらでも得られる。地下鉄にサリンテロを敢行するような人間だってダライ・ラマを利用して人望を得ることはできるし、性加害をもみ消したような人間だってこどもの人権のために活動していますなんて顔をして人望を得ることができた。人望なんてそんなペラッペラなもの。

 東京周辺でひきこもり当事者活動をして「人望」とやらを得ているひとのかなりの割合が、下の記事で指摘されたような問題点を持っている。それでも、ホモソーシャルむき出しの内輪で盛り上がって、内輪で「このひとは人望がある」なんて言い合って喜んでいる。当然、トランスヘイトをしたとて「人望」に何の影響もない。

anond.hatelabo.jp 濃いのだか薄いのだかなんだか知らないが、ひとひとりへの加害に向き合えないような人間が「人望」だけはあったりするのを見ていると、人望なんてものを基準にひとを値踏みするアホらしさはなお際立つ。

 番組では、自分が死んだ後になんと言ってほしいかを語り続けるキング牧師の説教が朗読される。わたしは、この説教を聴いて、大きな衝撃を受けると同時に、わたし自身も共感する部分が大きいことに気づいた。

 わたしは、わたしの主宰する居場所に来てくれたひとが労働搾取企業に使い潰されるのも、同居人から虐待されるのも、セクシュアリティゆえにぞんざいに扱われるのも、性暴力の標的にされるのも許せない。わたしは、わたしの力の限り、そのような暴力に抗い続け、また、目の前のひとに仕え続けたい。わたしは、ベニヤ板のような「人望」よりも、どれだけひとに仕え続けられたか、良きひとであり続けられたかを追い求めたい。そこで冒頭に戻る。ベニヤ板のような「人望」を追い求めない意思表示として、積極的に「わたしは人望ありませんから」と言い続けたい。

差別心の表出と逆切れ:コミュニティ内の摩擦

 もうおととしのことだ。「あの歳で高校に行こうなんておかしいでしょ、大検取って通信制大学行けよ」などとわたしに陰口を叩いた人間がいた。その人間が属するコミュニティで、この発言が問題視されることはついぞなかった。明確な差別発言なんだが。日頃人権や差別に意識が高い発言をしているはずのコミュニティだったはずなのだが。人間、ふとした瞬間に奥底に眠っている差別心が表に出てしまうことはある。それはしょうがない。問題は、奥底に眠っている差別心を表に出してしまって、それをとがめられた時にどう反応するかだ。残念ながら、当該コミュニティの中心人物は逆切れした。自らの差別性に向き合うことはついになかった。それでも、そのコミュニティは、「リベラル」「反差別」を自称しながら回っていく。わたしを足蹴にして。

「生きづらさ」なる言葉への疑念:人権侵害を覆い隠していないか

 E及び控訴人らは、それぞれ、地元の小中学校を卒業後、Eにおいては昭和六〇年四月、控訴人Bにおいては昭和六三年四月、いずれも福岡市内にある同じ私立高校に進学したが、Eは、二年留年して平成二年三月に高校卒業と同時に就職して同年四月一日付けで本件世帯から転出し、控訴人Bは、平成三年三月高校卒業後、亡Dの死亡のため内定していた他県での就職を断念して、福岡市内で就職した。また、控訴人Cは、平成四年四月に福岡市内の私立高校に進学したが、平成五年六月、右高校を中途退学し、以降、福岡市内で就職して稼働している。
―平10.10.9福岡高等裁判所判決、出典は「日本社会保障資料Ⅳ」、国立社会保障・人口問題研究所、2005年3月。

 いわゆる、「中嶋訴訟」の高裁判決。判決文はさらりと書いているが、結構すごいことを書いている一節を引用した。高校を中途退学することを余儀なくされたこの方は、今どうしているのだろうか。福岡市東福祉事務所長が頭下げて終わることではないはずなんだけど。

 この判決を読んで、「生きづらさ」なる言葉の反動性について改めて問い直している。明らかな人権侵害を、「生きづらさ」なる言葉で覆い隠していないか?「すべての生きづらさを抱える人のためのオンラインメディア」とやらを運営してた人間が、人権を盾に他人を攻撃するのは歪んだ正義などと言って、「人権」概念を否定しようとしている。人権侵害を、個人の適応能力の問題にすり替える機能を「生きづらさ」なる言葉が持っていると主張したら怒られるだろうか。だが、誰が何と言おうが、生活保護を利用していたひとが学資保険の返戻金を収入認定され、高校進学がままならなかったのは「生きづらさ」ではなく「人権侵害」なのである。

「多様な学び」=うどん屋が、定食屋を増長させている

 この記事を読んで。

hyouryu.hatenablog.jp これ、定食屋が「うちの店はあなたみたいな人が入れる店じゃないです、そこのうどん屋でうどんを食べられますよ。うどんが食べられればいいでしょ?」「うどん屋が高すぎるなら家でありあわせのものでも食べたら?」と言うところまであるあるだ。そんで、うどん屋の組合は、「多様な選択肢素晴らしい!」なんて言っちゃって、定食屋が客扱いしないことを何もとがめない。それどころかうどん屋の宣伝を始める始末。うどん屋の組合を作る中心になった老舗うどん屋が始めた業界紙なんかも、「多様な選択肢素晴らしい!」一辺倒で、定食屋がある層のひとを排除している問題には取り組まない。うどん屋業界がこういう姿勢でいることによって、定食屋が客を排除することに手を貸してしまっている構図がある。

 定食屋もうどん屋もそば屋も喫茶店もある商店街で、客はその時の気分に応じてうどん屋にも喫茶店にも定食屋にも行ける、なんならうどん屋に行った後で定食屋に行ってもいい、それこそが多様な学びじゃないの?定食屋から排除されてもうどん屋もあるし家でありあわせのものを食べてもいいってのが「多様な学び」?それは違うでしょうよ。

 うどん屋業界の新聞はうどん屋=「多様な学び」を積極的に勧める論調に変わってきたが、「多様な学び」なるものをいくら充実させたところで、定食屋が客を排除している問題は変わらず、さらに言えば定食屋を頂点とした序列も変わらない。チェックアウトはできても出口はないんですよ。

 もう少し具体的に。「多様な学校」ができることで、学校になじめなければ「多様な学校に行けばいいよ」とさっくりと言うことができる。それによって、既存の学校は自らの学校文化を問い直すどころかますます強化することができる。こうして、「多様な学校」は、既存の学校が従来の文化を維持強化する手助けをしている。

 具体的には、通信制高校について、酒井朗「高校中退の減少と拡大する私立通信制高校の役割に関する研究: 日本における学校教育の市場化の一断面」(上智大学教育学論集第52号、79ページ~92ページ)が次のような指摘をしている。

…既存の高校とは異なる学校文化を備えた高校が設置され、そこに既存の高校に適応できずにいる生徒の多くが転学、編入学できるようになったことで、既存の高校、すなわち全日制の高校や定時制高校は、従来通りの学校文化を堅持する、あるいはさらに強化することができるようになっているのではないかということである。

 「制服を着たくない?ああ、私服で通える通信制高校があるよ。そっちに行ってみてはいかが?」となり、「制服」を設定していることの問題点は問われにくくなっている。1990年代、子どもの権利条約が批准され、学校もこどもの権利の観点から問い直されるようになったはずだった。ところが、その「問い直し」の結果が「多様な学校」だったことに失望を禁じ得ない。
 ああ、「ホテル・カリフォルニア」。「外部」はない。チェックアウトはできても出口はない。

toled.hatenablog.com