ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

ベニヤ板のような「人望」よりも、ひとにどれだけ仕えられたかを追い求めたい

 ここ何週間か、「わたしは人望ありませんから」とあちこちで言ってきた。自虐ネタを披露していたつもりだった。だが、つい最近、FEBCの番組「生誕95周年記念・朗読「真夜中に戸をたたく キング牧師説教集」より 9 めだちたがりや本能」を聴いてから、誇りを持って「わたしは人望ありませんから」と言いたくなりつつある。

www.febcjp.com たぶん明日(2024.3.29)までは聴けるはず。

 番組を聴いて、「人望」なるものを追い求めることに虚しさを感じた。ひとに仕えて、ひとの僕になって、その結果人望が追い付いてくることはあるが、最初から人望なるものを追い求めたり人望なるものを基準にすることはバカバカしくなった。ベニヤ板のようにぺらっぺらの人望ならいくらでも得られる。地下鉄にサリンテロを敢行するような人間だってダライ・ラマを利用して人望を得ることはできるし、性加害をもみ消したような人間だってこどもの人権のために活動していますなんて顔をして人望を得ることができた。人望なんてそんなペラッペラなもの。

 東京周辺でひきこもり当事者活動をして「人望」とやらを得ているひとのかなりの割合が、下の記事で指摘されたような問題点を持っている。それでも、ホモソーシャルむき出しの内輪で盛り上がって、内輪で「このひとは人望がある」なんて言い合って喜んでいる。当然、トランスヘイトをしたとて「人望」に何の影響もない。

anond.hatelabo.jp 濃いのだか薄いのだかなんだか知らないが、ひとひとりへの加害に向き合えないような人間が「人望」だけはあったりするのを見ていると、人望なんてものを基準にひとを値踏みするアホらしさはなお際立つ。

 番組では、自分が死んだ後になんと言ってほしいかを語り続けるキング牧師の説教が朗読される。わたしは、この説教を聴いて、大きな衝撃を受けると同時に、わたし自身も共感する部分が大きいことに気づいた。

 わたしは、わたしの主宰する居場所に来てくれたひとが労働搾取企業に使い潰されるのも、同居人から虐待されるのも、セクシュアリティゆえにぞんざいに扱われるのも、性暴力の標的にされるのも許せない。わたしは、わたしの力の限り、そのような暴力に抗い続け、また、目の前のひとに仕え続けたい。わたしは、ベニヤ板のような「人望」よりも、どれだけひとに仕え続けられたか、良きひとであり続けられたかを追い求めたい。そこで冒頭に戻る。ベニヤ板のような「人望」を追い求めない意思表示として、積極的に「わたしは人望ありませんから」と言い続けたい。