ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

くじで大学進学者を選抜する方が公正なんじゃないでしょうかね(皮肉)

 このまとめに対する反応の続き。

togetter.com 「地方」の「女性」が慶応大学に進学してくるまでには、「地方出身」であることと「女性」であること、二つの困難を乗り越えなければならない。「東京出身」の「男性」には認識できない実情がある。「家庭の経済状況」も大学進学に影響する。大学入学者選抜はかなり不公正な状況だ。それを開き直って、「経済的に不利ならば休学と復学を繰り返せるシステムを」だとか言って、正面から大学無償化に踏み込もうとしない。休学と復学を繰り返せるシステムを作ったところで、経済的に不利な学生の不利が埋められるわけではない。

 みなさん、不平等が何よりも好きなようだから、いっそ、大学進学者はくじで選んだらいいんじゃないでしょうかね。第一段階で大学に進学できるひとをくじで選び、第二段階で各大学ごとの入試を行えばいい。それでも、現状の大学入学者と学力などは大きくは変わらないとわたしは考える。それくらいに今の日本の大学教育の分配は不公正になっている。

 皮肉はさておき、少しまじめなことを言えば、大学の合格者を厳密に学力順で決めることはない。中央教育審議会は答申「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」*1で次のように述べた。

 日本では入学試験のやり方は、まずなによりも公平でなければならない、という観念がはなはだ強い。しかもペーパーテストを過度に信頼し、その点数の高い方から機械的に順に入学者を決めていく点数絶対主義がひたすら正しく、1点でも低い者が落ちるのは当然で、そうするのが公平なのだと簡単に信じられている。そのためこの点だけは疑ってはならないという意識が強く働いているが、実はこの公正観が新しい不公正の始まりだということに、人々は気が付いていない。

 ペーパーテストの能力判定だけを絶対視してきた結果、大都会に住んでいて、かなり教育熱心な家庭の子どもが圧倒的に有利になっている。決して家庭の収入の多さだけが有利の条件ではない。教育投資にのみ過敏に反応する大都市居住者の子どもに一方的に有利になる、そういう結果が近年著しい。能力があっても、誰でもが平等に近づくことのできない大都会の進学実績度の高い国立の附属学校や私立の中高一貫校が、長期にわたって有利な条件を保持し続けることが、果たして公正と言えるのだろうか。何が公正であるかを、国民はここで新たに問い直さなくてはならない。

 幼いうちから受験技術の特訓を重ねる条件に恵まれた子どもにだけ有力大学への門戸が広い現状は、教育における機会均等の理念に反するだけではない。このまま続けていけば、やがて新しい階層分化を生じさせ、本当の意味での人材開発に役立たないのみならず、日本の指導者層の力の衰弱をも引き起こしかねないだろう。

 入学試験は寸秒を争う100m競争ではないのだから、もっと自由に考えてよいのではないか。何が公正かについて、われわれはもっと多元的尺度を取り入れ、今のように客観的正確さにこだわらなくてよい方法を考案すべきである。点数だけを基準にする正確さが、果たして客観的に正確かどうかも、本当のところはよく分からないのである。

 いったい何が公正の観念か?一例を挙げてみよう。

 入学定員1,000人の大学で、得点順位3,000番を採れ、とは言わない。しかし、1,000番までと1,500番までとの間に、通例、決定的差はない。仮の言い方だが、501番から1,500番までの間から500名を選抜するのに、点数とはまったく別の基準を立ててもよいのではないか。考え方はいろいろあるはずだ。何らかの方法で各県から幅広く選抜するのも、特定の高等学校に集中するのを避け、できるだけ数多くの高等学校から選ぶようにするのも、ボランティア活動や部活動を考慮するのも、職業高校卒業生を特別配慮するのも、みな公正の観念に入り得る。

 説得力のある論である。入学定員が1,000人の大学ならば、500人は得点上位500人をそのまま選ぶとしても、残りの500人は得点順位501人めから1,500人めまでの受験生の中から、全体の合格者数が男女同数になるように選び出すなどしてもよい。

慶應義塾大学の食料支援、女子であるというだけで大学進学に不利であることの手当だってば

 はてなブックマークに書くには長すぎるからこっちに書きますけど、貧富の軸のほかに女男の軸、地方在住・首都圏在住の軸があって、「貧」はもちろんのこと「女」「地方在住」も慶応義塾大学進学に当たって不利な属性になる。「女の子をわざわざ東京に出す必要はない」なんて考えのひとが結構いるわけだ。それで、「地方在住」の「女子」にも手当をすることにした。それだけのことである。

 ちなみに、慶応義塾大学の学生数の男女比は2対1。男子のほうが多い。女子が慶應義塾大学に進学するのは難しいことを示している。

 これは慶應義塾大学の話ではなく東京大学の話になるが、東京大学ともなると埼玉県内からの進学さえ男女に差が出てくる。埼玉県には県下一の難関進学校として男子校の県立浦和高校、女子校の県立浦和第一女子高校がある。両校は3㎞と離れていないが、東京大学への進学者数は浦和高校が浦和第一女子高校の3倍。女子は受験する前の段階で足を引っ張られている。「首都圏在住」の「男性」には見えない世界。

togetter.com

ベニヤ板のような「人望」よりも、ひとにどれだけ仕えられたかを追い求めたい

 ここ何週間か、「わたしは人望ありませんから」とあちこちで言ってきた。自虐ネタを披露していたつもりだった。だが、つい最近、FEBCの番組「生誕95周年記念・朗読「真夜中に戸をたたく キング牧師説教集」より 9 めだちたがりや本能」を聴いてから、誇りを持って「わたしは人望ありませんから」と言いたくなりつつある。

www.febcjp.com たぶん明日(2024.3.29)までは聴けるはず。

 番組を聴いて、「人望」なるものを追い求めることに虚しさを感じた。ひとに仕えて、ひとの僕になって、その結果人望が追い付いてくることはあるが、最初から人望なるものを追い求めたり人望なるものを基準にすることはバカバカしくなった。ベニヤ板のようにぺらっぺらの人望ならいくらでも得られる。地下鉄にサリンテロを敢行するような人間だってダライ・ラマを利用して人望を得ることはできるし、性加害をもみ消したような人間だってこどもの人権のために活動していますなんて顔をして人望を得ることができた。人望なんてそんなペラッペラなもの。

 東京周辺でひきこもり当事者活動をして「人望」とやらを得ているひとのかなりの割合が、下の記事で指摘されたような問題点を持っている。それでも、ホモソーシャルむき出しの内輪で盛り上がって、内輪で「このひとは人望がある」なんて言い合って喜んでいる。当然、トランスヘイトをしたとて「人望」に何の影響もない。

anond.hatelabo.jp 濃いのだか薄いのだかなんだか知らないが、ひとひとりへの加害に向き合えないような人間が「人望」だけはあったりするのを見ていると、人望なんてものを基準にひとを値踏みするアホらしさはなお際立つ。

 番組では、自分が死んだ後になんと言ってほしいかを語り続けるキング牧師の説教が朗読される。わたしは、この説教を聴いて、大きな衝撃を受けると同時に、わたし自身も共感する部分が大きいことに気づいた。

 わたしは、わたしの主宰する居場所に来てくれたひとが労働搾取企業に使い潰されるのも、同居人から虐待されるのも、セクシュアリティゆえにぞんざいに扱われるのも、性暴力の標的にされるのも許せない。わたしは、わたしの力の限り、そのような暴力に抗い続け、また、目の前のひとに仕え続けたい。わたしは、ベニヤ板のような「人望」よりも、どれだけひとに仕え続けられたか、良きひとであり続けられたかを追い求めたい。そこで冒頭に戻る。ベニヤ板のような「人望」を追い求めない意思表示として、積極的に「わたしは人望ありませんから」と言い続けたい。

差別心の表出と逆切れ:コミュニティ内の摩擦

 もうおととしのことだ。「あの歳で高校に行こうなんておかしいでしょ、大検取って通信制大学行けよ」などとわたしに陰口を叩いた人間がいた。その人間が属するコミュニティで、この発言が問題視されることはついぞなかった。明確な差別発言なんだが。日頃人権や差別に意識が高い発言をしているはずのコミュニティだったはずなのだが。人間、ふとした瞬間に奥底に眠っている差別心が表に出てしまうことはある。それはしょうがない。問題は、奥底に眠っている差別心を表に出してしまって、それをとがめられた時にどう反応するかだ。残念ながら、当該コミュニティの中心人物は逆切れした。自らの差別性に向き合うことはついになかった。それでも、そのコミュニティは、「リベラル」「反差別」を自称しながら回っていく。わたしを足蹴にして。

「生きづらさ」なる言葉への疑念:人権侵害を覆い隠していないか

 E及び控訴人らは、それぞれ、地元の小中学校を卒業後、Eにおいては昭和六〇年四月、控訴人Bにおいては昭和六三年四月、いずれも福岡市内にある同じ私立高校に進学したが、Eは、二年留年して平成二年三月に高校卒業と同時に就職して同年四月一日付けで本件世帯から転出し、控訴人Bは、平成三年三月高校卒業後、亡Dの死亡のため内定していた他県での就職を断念して、福岡市内で就職した。また、控訴人Cは、平成四年四月に福岡市内の私立高校に進学したが、平成五年六月、右高校を中途退学し、以降、福岡市内で就職して稼働している。
―平10.10.9福岡高等裁判所判決、出典は「日本社会保障資料Ⅳ」、国立社会保障・人口問題研究所、2005年3月。

 いわゆる、「中嶋訴訟」の高裁判決。判決文はさらりと書いているが、結構すごいことを書いている一節を引用した。高校を中途退学することを余儀なくされたこの方は、今どうしているのだろうか。福岡市東福祉事務所長が頭下げて終わることではないはずなんだけど。

 この判決を読んで、「生きづらさ」なる言葉の反動性について改めて問い直している。明らかな人権侵害を、「生きづらさ」なる言葉で覆い隠していないか?「すべての生きづらさを抱える人のためのオンラインメディア」とやらを運営してた人間が、人権を盾に他人を攻撃するのは歪んだ正義などと言って、「人権」概念を否定しようとしている。人権侵害を、個人の適応能力の問題にすり替える機能を「生きづらさ」なる言葉が持っていると主張したら怒られるだろうか。だが、誰が何と言おうが、生活保護を利用していたひとが学資保険の返戻金を収入認定され、高校進学がままならなかったのは「生きづらさ」ではなく「人権侵害」なのである。