ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

ひきこもりプレイス多摩で恋愛について考えつつ語って見えたもの

 12月23日に開かれた第33回ひきこもりプレイス多摩(ひきたま )X’mas Specialに参加してきた。今年はちょうどひきポスでも「ひきこもりと恋愛・結婚」についての特集があったところであり、それも受けて「ひきこもりと恋愛・結婚 inspired by ひきポス 03」というテーマで開かれた。その時考えたりしたこと、それから見えてきたものをつらつらと書いておく。いろいろと考えてたら、来年の活動の方針みたいなものまで思いついてしまったのだからどうしようもないというね。なお、他の参加者の発言は当たり前であるが一切記述できないことをお断りしておく。

 当初は「恋愛というのは悪質商法の契約のようなものだ」と考えていた私。ほんの僅かばかりの希望をエサに、最後は災いをもたらすものとして捉えていた。ただ、ひきたまでは結構な数の人と恋愛やら結婚について語り合った。そうやって語り合っているうちに、恋愛も結婚も実に多様なあり方があるのだなということが見えてきた。結婚したからとハッピーエンドではないという現実も聞いた。とある会で「女性当事者は存外非当事者の男性を見つけて結婚するんですよね」という話を聞いて以来、なんとなくささくれ立っていた心が少しだけ落ち着いた気がした。別に他人の不幸を喜んでいるわけではない。なんとなく、私自身の居場所も亡くなったわけではないと思えたのだ。

 そして、そんな多様な考え方に触れているうちに、何だかわたし自身のぐずぐずといったものもそのままでいいのだと思えた気がしたのだ。このブログでも以前から書いているのだけれども、こと恋愛に関してはぐずぐずした気持ちを持ち続けている。いわゆる恋愛のテンプレには今一つ乗る気にはなれず、しかしそれでも恋する情熱というようなものは人並みにあったりして、なかなかにぐずぐずしているのだ。

 さらにぐずぐずに拍車をかけるのは、わたし自身が女性たちから性被害の話を結構聞いていることだ。今や「全女性が性被害に一度は遭ったことがある」と思うくらいである。そういう性被害の話を聞いていると、なおさら自分の男性という性に嫌悪感を抱くのである(もともと自分の男性性には違和感を持っていたのだけれども)。

 ひきたまに参加して、そんなぐずぐずをぐずぐずのまま持ち続けていいのだと思えた気がした。振り返ってみると、ぐずぐずをぐずぐずのまま持ち続けていたころの方がはるかに楽に生きられた気がする。そんなぐずぐずが女性たちと相対するときの態度にも自然に出ていた気がする。そしてそれはおおむね好評であった。もちろん、わたしも人間であるから、時折侵害してはいけない線を(時に大きく)侵害することはあったが。とはいえ、近年ではだいたいにおいてぐずぐずを抱えたままであった。

 その割り切れないぐずぐずはぐずぐずのまま抱えていればよかったのだが、そのようなぐずぐずを抱えていてはいけないと思い詰めたのがここ一年半くらいのことである。ぐずぐずした思いを恋愛のテンプレートにむりやり押し込めたことは痛恨の失敗であった。

 

 で、ここまで書いてきて、来年への展望なんかも書いてみたりする。ぐずぐずをぐずぐずのまま持ち続けるのはわたしにとっては大切なことであるから、来年はぐずぐずをぐずぐずのまま持ち続けてぐずぐずし続けようと思う。それがまた何か新しい道を開いてくれるだろうと信じて。人は割り切れ割り切れと言うが、割り切れないものを無理やり割り切るとおかしなことになるからやらない。

 自分で自分を追い詰めて行うことはだいたいにおいてろくなことにならないこともまた経験が教えるところである。自分を追い詰める言葉もある種の義務感を持って聞くようにしていたし、さらにはそのような言葉が語られる場にわざわざ赴いてきた。これも来年は控えめにする。

 ある種耳障りのいい「現実論」(それは悲観的なものである)にばかり耳を傾けるのではなく、多様な、豊かな論に触れること。自分が楽しいと思える場に参加すること。ぐずぐずをぐずぐずのまま持ち続けられる環境に置くこと。それが来年の活動方針かなと。