ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

ケイパビリティという概念、ひきこもりや不登校を考えるときにそれなりに有意義な気がする

 今年の夏、小幡和輝氏が「不登校は不幸じゃない」というムーブメントを起こそうとして活動していらっしゃった。アピール文の中に「不登校は大丈夫だけど、引きこもりは良くないと思っています。」とする一節があって、それなりにひっかかった。そのことは以前の記事でも書いたが、ここではちょっと違った角度から。

 確かに、ひきこもりにマイナスのまなざしを向けるのは良くないとは思うのだ。当事者を「矯正」しようとするなんて言語道断。だけれども、わたしはひきこもりという体験をそれほど肯定的に語る気にはなれない。というのも、わたし個人の主観は「外に出るための梯子を奪われた」からこそひきこもったと思っているからだ。そして、それは幸福なことであったとは思えない。

 「現実にどのような選択肢が存在しているか」「現実に存在する機会はいかほどのものか」が問題なのだと思う。アマルティア・センはそれをケイパビリティと呼んだが、わたしは浅学の身なので詳説はしない。興味がある方はアマルティア・セン氏の著書をお読みいただきたいが、わたしの考えもアマルティア・セン氏のケイパビリティという概念に大いに触発されている。

 一見不幸そうに見えるのは、現実に存在する機会がとても乏しいからではなかろうか。いくら良き活動であっても、それ以外の選択肢がなく仕方がなく参加しているのであれば、それはやはり不幸と言える。たとえ自宅から出ないひきこもり状態であっても、多様な機会の中から自ら選び取ることができたものであればそれは不幸ではない。 どれだけ素晴らしい支援施設であっても、それ以外の選択肢が存在しないとしたら、その支援施設に入ることが幸福とは言えない。

 もちろん、現実に目の前に存在する機会は人によって違っているのだから、同じ「支援」や同じ「サービス」が当人にとって幸福をもたらすに十分なものかは個人によって全く違う。

 わたしがひきこもり経験を不幸と感じたのは、まさに目の前に存在する機会は自室での生活以外に存在しなかったからなのだ。ひきこもりをこのような「機会」の問題として考える人が少ないのはとても残念である。

 

【追記】

 私の舌足らずのせいで誤解を与えてしまって非常に申し訳ない限りである。「ひきこもらない状態」を実現することこそが幸福だと言っているのではない。「ひきこもらない状態を実現する自由」「ひきこもる状態を実現する自由」こそが重要なのだ。そのような自由が存在しなければ、どのような状態も幸福とは言えない。私が「機会」という言葉に込めた意味は、「ある状態を実現する自由」のことである。そして、そのような自由が現実のものとしてあるかどうかは個人によって違う。単純に脱ひきこもりを「支援」して「機会」を与えると称する団体は数多あるが、それらの団体が私の述べるような意味で「自由」を提示できているかどうかは疑わしいものである。