本題を始める前に注意書き。この記事で、「貧困」とは、暮らしぶりをよくする実質的な自由が損なわれた状態(アマルティア・センさんが言う「ケイパビリティの欠如」)を言う。低所得はこの記事で言う貧困に含まれるが、貧困とはこれに限られるものではない。
つい最近、NHK「あさイチ」で校則の特集をしていた(11月22日)。この番組の中で、制服を採用している理由として、家庭の貧富の差を隠せるとの理由があった。制服によって貧富の差を隠せるとの説は、かなり広い範囲で信じられていて、政治家の方の中にも信じている人がいる。たとえば、自民党の小野田紀美さんのこのツイート。
自由な服で学校生活 片山津中4日間「校則考えるきっかけに」
— 小野田紀美【参議院議員(岡山県選挙区)】 (@onoda_kimi) 2021年11月19日
https://t.co/70JRlsQLHI
生徒さん達がルールを自ら考えるのは素敵な事だと理解しつつ。私は1人親で貧しかったので小学生時代私服はよそのお下がりで助けて貰っており、もし制服がなければ正直キツかった。制服は命綱でもあるのです…。
制服で貧富の差を隠せるって、本当か?わたしは実体験から強い疑問を抱く。制服を買えるってだけで、ある程度の豊かさを持ち合わせているのではなかろうか。何の本で読んだかは忘れたが、高校に入学したのはいいが、制服を買えずに退学していった高校生の話を読んで以来、制服で貧富の差を隠せるなんて話には眉につばを付けて聞くことにしている。制服で貧富の差を隠すとは、制服を着られるくらいに豊かな人たちというコップの中の貧富の差を隠しているだけで、制服を着られないくらいに貧困である人たちをよりわけたうえでの話だ。
実際のところ、貧困状態にある人たちが多い*1定時制・通信制の課程はほとんどが私服だ。通信制は制服のある学校も多いが、そのような学校はだいたい高い学費を払わなければならない私立の学校だ。学費が安い公立の通信制で制服を導入しているところをわたしは聞いたことがない。
そうすると、制服で貧富の差を隠しているように見えるのは、制服を採用している学校に進学できて、制服を購入して着られるくらいの豊かさを持っている人を選りわけ、それだけの豊かさを持ってない人を排除しただけのことだ。そんな形で学校内だけで貧富の差を見えなくしたところで、大した意義はない。