ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

ふたたび響き渡る「lost graduation」

 かつて、私は中学校を失意のまま去ることになった。それまで当たり前にあった「居場所」が、ついになくなり、そのあとの「居場所」は、自分自身に価値があることを示さないと得られないという現実に直面したのだ。その「価値」は、学業成績だったり、あるいは経済力だったりしたわけだが、私にはそのいずれもなかった。学業成績があれば公立高校に進むことができた。経済力があればフリースクールなりサポート校なりに進むことができた。そのいずれもがなかったから、家にいることしかできなくなってしまったのだ。いや、労働力商品としての価値があれば、商品として買われることはできたのかもしれないが、それすらも存在しなかったのだからどうしようもない。

 その時の喪失感は、今も鮮明に思い出すことができる。卒業証書を取りに行った帰り、空っぽになった下駄箱を見て、自分が行く場所は本当になくなってしまったのだと痛感した。その時はその喪失感を語る言葉を持たなかったが、それから10年ほども経ったとき、Raphaelの「lost graduation」を聞いて「まさにこれだ」と思ったものである。今でも、当時の失望感はどんなものでしたかと問われれば、「lost graduation」を聞いてくださいと答える。

 この曲を知ってから幾年、私は、ついに価値に関わらず受け入れてもらえる人間関係を取り結ぶことができた、価値に関わらず受け入れてもらえる居場所を見つけた、そんな喜びさえも感じていた時期があった。そのころは、毎月が楽しみで、このままこの楽しい日々がずっと続くと思っていた。そして、この楽しい日々を続けるためには最低限の仕事は必要だよね、と思って、最低限の労力で必要なだけの金銭を得られる仕事を探していた(そう、偉そうなことを書いたが実のところそんな動機だったのです。結局、最低限の労力で必要なだけの金銭を得られる仕事には就けたのであったが。ただし、何をもって「最低限の労力」としているかは極めて長い説明が必要なので今回は割愛する)。

 ところが、そんな楽しい日々は長くは続かなかった。実のところ、市場取引の論理に簡単に飲み込まれてしまう、そんな儚い関係だったのだ。私は、そんな関係しか取り結べなかった。再び、「居場所」は「価値」がないと得られないという現実に直面したのだ。「きれいごと」を言っている団体が開放している場所で出会った人たちであったから、その喪失感はなおさら大きかった。

 再び、「lost graduation」が私の頭の中に響き渡っている。前回よりもより大きい喪失感とともに。中学校を失意のまま去ったころ、「ハルマゲドン」の到来を本気で信じ、そしてそれを救いにしていた。今ではさすがにハルマゲドンの到来を救いとは思わない。私だけがこの世からきれいに消え去ることが救いだと思っていて、その時をただひたすらに待望しているのである。能動的に死にに行くことはできないけれど、運命的な死なら…と思っている。