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「「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ」読後メモ

 長島有里枝著「「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ」(大福書林)を読んだ時にどこかに書いたメモ。古いメモなので過去の日付で公開しておく。
【撮る・撮られるという権力関係】
 そういえば、ヌード写真って、被写体は女性ばかり。男性ヌード写真は極めて珍しい。男性が見る側、女性が見られる側、そういう権力関係があるわけですよ。ヌード写真はその権力関係がもっとも端的に表れる場面だけど、この権力関係、被写体と写真家の間には常に存在している。たいていの場合、写真家は男性、被写体は女性だった。男性と女性の権力関係が、写真家と被写体の権力関係にもそのまま横滑りしていた。
 ひきこもり界でも、マスメディアがひきこもり当事者を〈撮る〉ということは当たり前のように行われていて、そこには権力関係がある。どれだけ本人の意に沿った取材でも。権力関係があるから、本人の意思を踏みにじるものにしてしまうのも日常茶飯事。撮る・撮られるという関係に権力関係はどうしても付きまとうものらしい。
【権力関係を撹乱させたガーリーフォト】
 1990年代、ガーリーフォトがブームになった。ガーリーフォトの特徴は、若い女性写真家が、自分の身近なもの、さらには自分自身を被写体にした写真を撮影すること。これまで、当たり前のように男性に〈撮られる〉存在だった女性が、自らを被写体にした作品を次々と発表していった。〈撮る・撮られる〉という権力関係を撹乱するものであった。さあ、新しい時代がやってきた、これまで〈撮られる〉側だった女性が〈撮る〉側に!しかも、写真家と被写体という権力関係も撹乱してみせた!ところが、権力関係なんてものはそうはなかなか消えないものなのでありました。
【「僕ら」が所有する「女の子写真」】
 これらガーリーフォトに対して、男性評論家たちは、これまでの権力関係をそのまま残した形で受容する。曰く、操作が簡単なカメラが出てきたことから「女の子写真」と呼ばれるジャンルが生まれた、とか。曰く、「女の子写真」は未熟さを残しているから魅力があるだとか。そこには、技術もしっかり持っていて成熟した男性写真家対技術も未熟で成長しきってない「女の子写真」家という対比がまずある。(ほかにもいろいろ指摘されてるんだけど、関心がある方はぜひ本書を読んでほしい)
 昔、どこかで誰かが言ってた記憶があるんだけど、「若い」が誉め言葉ではないってことの意味、初めて理解した。これ余談。
 ともかくも、男性評論家たちは、未熟ではかないものとして「女の子写真」を受容した。実際には技術的にもよく練られた作品であったのに。そうして、「男性写真家」と違ったものとして、「女の子写真」を位置付けた。
 と、ガーリーフォトをめぐるあれこれから見ていると、ひきこもり当事者発信がどう受容されるかも警戒して見なければならなそうだ。ガーリーフォトの主なモチーフだったセルフポートレート―ひきこもり界では当事者発信となろうか―に対して、「自己中心的な若者」や「ずっとこのままでいたい、このままでいないと壊れてしまいそうなもろい若者」として語られ、しかもそうであるからこそ新しい潮流として評価する、という受容のしかたをされた。ひきこもり当事者発信―往々にして多数派への異議申し立てをも含む―が、その意図の通りに受容されるかは大いに警戒しなければならない。受容する側にとって「無害」な形に中和した解釈をされて受容されるかもしれない。
【1990年代男性評論家たちと同じ轍を踏むわたし】
 ここまで、つらつらと他人様のことを書いてきた。わたし自身はどうなんだ。わたし自身は本書をある種の恋愛本としても読んだ。なんでこんなのが恋愛本なんだとツッコミが来そうだが、ほら、どういうように受容されるかは書き手には制御できないことを示すいい例と考えてほしい。
 1990年代ガーリーフォトグラファーは、同世代か、あるいはもっと下の世代の女性をエンパワーメントした。それまで〈お父さん〉の専有物だったカメラを手にして、自分でも写真を撮るようになった。
 1990年代のガーリーフォトグラファーは女性たちをエンパワーメントしてみせたのだが、さてわたしはどうだろう。
 だいたいにおいてフラジャイルな女性に恋愛することが多く、それってガーリーフォトを前にして男性評論家たちがあれこれ言って見せて、しまいには理解ある擁護者として振る舞って見せたのとまったく同じ構図である。要するに守ってあげないと壊れてしまいそうなもろい女の子を守ってあげたい、的なね。この点において、わたしは1990年代ガーリーフォトを前にした男性評論家たちと同じ轍を踏んでいる。
 そして、そんなことを考えていて、行動の端々に出てしまっていたから恋愛に失敗したんだな、と、今になってみるとわかる。
 そこまではわかった。さて、ではどうやって対等な関係を結ぼうか。そもそもフラジャイルな相手を好きになっちゃって、である以上どうしても権力関係になってしまいそうなのは自覚していて、なので誰かがエンパワーメントしてくれるといいんだけど、あれ、ピアの力ってあったな。これだ。
 1990年代ガーリーフォトグラファーが女性たちをエンパワーメントしてみせたのも、何よりも〈ピア〉として見えるように振る舞っていたのが大きい。男性であるわたしが女性と〈ピア〉になれるかは危ういところがあるんだけど。
 昨年一年間、誰かがひきこもり女子会を起こさないかなーと、埼玉東部でうんうんうなっていた。うなってはいたんだけど、女性当事者をエンパワーメントすることができなかったから、結局ひきこもり女子会も起きなかった。簡単な話だ。
 わたし自身は、ひきこもりUX会議の数々の実践にエンパワーメントされて茶話会始めたのだが、わたし自身が他者をエンパワーメントすることはなかった。うーむ、これは恋愛に関しても相当に先行きは暗いと考えたほうがよさそうだ。
と、自身の恋愛に対する姿勢まであれこれ反省したのでした。
【最後に】
夜遅くなってきたのに何こんな長文書いてるんだか。読んでる方も大変に決まってるやないか。ぶぶ漬け食べてさっさと寝ろと自分に言い聞かせておく。