iss.ndl.go.jp 「呪いの言葉」が、いかに自分たちを縛っているか、いかに自分たちを不自由にしているか、わかりやすく書かれている。最初は「労働」「政治」。後の方になるに従って、自分たちの暮らしすべてに「呪いの言葉」が染み渡っていることを書いてくれている。
横浜に行った用事がまた関連する用事だったので、最後の章に特に深く引き付けられた。ドラマ「カルテット」を題材にしている。ドラマでは、定職を持たない人間はダメ人間と当たり前のように査定する「弟」に、何の資格があってそんな査定をするのだと返す「司」。その「司」は、一緒にカルテットを組んできた仲間たちの、「ちゃんとしてないところ」を肯定する言葉を紡ぎ出す。「働いているのが当たり前」との「呪いの言葉」に対して、仲間の生き方を全肯定する「司」。「司」の姿に、著者は「湧き水の言葉」を見い出す。ここで著者が言う「湧き水の言葉」とは、「呪いの言葉」から解放し、自分の生き方を肯定する言葉のことだ。
「呪いの言葉」に対して、自分を解放する「湧き水の言葉」を得ることによって、自由を手にしていく。しかも、同志とも呼べる仲間たちが、互いに互いを肯定しあう。とても素敵なことだ。そして、それは、自分がかつて通ってきた道であり、今も進んでいる道でもある。
わたし個人の考え方だけど、ひきこもりとは、「自由」が損なわれた状態のことを指すと考えていて(厳密にはアマルティア・センの言う「ケイパビリティ」が損なわれた状態)、だから、「自由」を取り戻すことが大事だと思っている。働いているか働いていないかは問題ではない。自由かそうでないかこそが問題だと思っている。アマルティア・センの言葉を借りれば、ハンストと餓死は違う。
ここで、自分は、新しい言葉を得た。「呪いの言葉」にとらわれているか、「呪いの言葉」から解き放たれているか、それがひきこもりかそうでないかを分かつものと説明する言葉を。「呪いの言葉」から解き放たれていれば、同じ状態でも「ひきこもりではない」。「呪いの言葉」に縛られていれば、「ひきこもり」。そして、「呪いの言葉」に縛られていることのみが、わたしには「問題」に思える。
そんなことを、帰り道、「呪いの言葉の解き方」を読み終えた電車の中で、考えた。