ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「よくはない」が「仕方ない」

 この投稿を見て違和感を覚えた。

「よくはない」

 この投稿からしばらくして、わたしはこの投稿をした方とやり取りした。この方は、「『ご利用者の自己実現』を理念として働いている」と述べられた。そうは言っても、施設が施設である限り、「そのひとらしく暮らす」には限界がある。その一端は、先に挙げた投稿にある「余暇活動」なる語に表れている。施設で暮らしているひとたちに「遊び」はない。専門職が周到に準備して与えられる「余暇活動」があるのみである。「余暇活動」なる語を使う時点で、すでに専門職―利用者の権力関係が発生している。

 わたしの友人は、精神疾患が重症化して病院で年単位の長期療養を強いられている。そんな友人に年賀状の一つも送ろうと考え、ご家族に聞いてみたところ、「病院がそういうのはよく思わないのよ」と。いうまでもなく、はがきのやり取りを制限することは精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第36条第2項で禁止されている。それでも、患者の家族は、病院の意図を忖度して、自主的に行動制限をする。病院から追い出されたら行き場がないから。「施設」の専門職は、それくらいの権力性は持っている。その権力で「そのひとらしい生活」を一方的に定めて押し付けることは容易にできる。冒頭の投稿をした方がそうしていると言っているのではない。「施設」そのものの限界を述べている。

 また、施設での生活は、どうしたってレディーメードになることも指摘しておかなければならない。今日の夕食を近所のスーパーで安売りしていた旬の魚にしようなどと考えて「選ぶ」ことはできない。施設の専門職が定めた献立通りの食事を食べるしかない。夜更けにバナナを買って食べることもできない。

 そんなわけなので、「施設でもよい」とは言えない。

「仕方ない」

 では、施設を出て生活できる環境があるかと言えば、必ずしもそうではない。自宅で一人暮らしできるくらいの社会資源があるとは言えない。先ほども述べた通り、施設を出されたら行き場がない事実は存在する。施設で生活することが「仕方ない」とは言える。

 とはいえ、あくまでも「仕方ない」は「仕方ない」であって、「良い」ではない。このことに思いをはせることなく「施設での生活でも良いじゃないですか」と言い切ってしまうことは危険だ。まして、冒頭の投稿は、グループホーム反対運動に関するものである。グループホームで暮らしたいと希望するひとに「施設でいいじゃないですか」と、希望を否定しているようなものである。明らかに、やってはいけないことに踏み込んでいる。

「箱」を問い続ける必要

 冒頭に掲げた投稿をした投稿者は、おそらく、「箱」の中で、最大限に努力する専門職なのだろう。その善意は確かなものだと考える。しかし、その「箱」は絶対になくせないものなのか、「箱」の外に出られないのか、問い続ける必要はある。「箱」の中で最大限に努力することそのものが、もはや必要のなくなった「箱」をいつまでも温存し続けている可能性もある。このことは、「らい予防法」の歴史から見出した教訓だ。

わたしの立場をちょっとだけ説明

 それにしても、ずいぶんバカにされたものである。「あなたもどうせ知的障害者が近隣に引っ越してくるなら反対運動するでしょ」と言わんばかりに。わたしは、もう長いこと、知的障害者が日中を過ごす施設の町内に住んでいて、何なら昼食を買いに行った店で、その施設に通うひとに出くわすことも日常だ。知的障害者と同じ地域に暮らす地域住民をもう30年以上やってますけどと、冒頭の投稿をした投稿者には言いたい。わたしが見ている世界がごく一部を見ただけのものなのかもしれないが、近所の弁当店で出くわすあのひとたちが、中山間地域に立地する入所施設に生活の場を移さなければならない理由は一体何なのか。そのことの説明を求めたい。