ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

優生思想とか、生産性でものごとをはかるとか、例のウイルスとかなんとかかんとか

SARS-CoV-2(ほとんど誰も知らないでしょうけれど、いわゆる新型コロナウイルスとして呼ばれてるあれですよ)というウイルス、その振る舞いが優生思想をほぼ正確になぞっている。SARS-CoV-2が獰猛に餌食にするのは高齢者と基礎疾患のある方。もう優生思想そのままに振る舞ってる。優生思想からすれば、高齢者や基礎疾患のある方などは「生産性がない」から抹消しなければならないとなるわけで。

厚生労働省「全国クラスターマップ」を見ると、よりこのウイルスが弱者を狙い撃ちして餌食にしていることがわかる。そういえば、日本で最初の死者が出たのも相模原市。優生思想による極めて凶悪な犯行が行われたのと同じ市内なのは、ただの偶然ではあろうが、奇妙な符合を感じる。

もちろん、ウイルスが優生思想をもって振る舞ってるわけではなく(多分。)、なんとなく皆が持っていた優生思想的な考えで、あえて脆弱なまま放置していたところが狙い撃ちされてクラスター感染を起こしているのだろう。介護施設福祉施設はその典型。高齢者が生きていくのは、それだけでミッションクリティカル。なので、高齢者の生を支える施設にはもっと多くの資金とリソースを割かなければならなかった。現実には、ギリギリ最低限の資金とリソースしか用意されてないのだが。もちろん財政上の制約もあるのだろうけど、それでも、高齢者の生を支えるのにあまりリソースを割いてこなかったのは、「生産性」を唯一の物差しにするような考え方がなかったとは思わない。絶対どこかにそういう考え方があったはず。

それでも、これまでは、何とかだいたいの高齢者は生きながらえることができていた。不十分ながらも社会的にリソースを割いてきたためだ。社会の機能が弱ければ、容赦なく高齢者の命は失われる。今まですっかり忘れていた現実を、SARS-CoV-2は容赦なく思い出させた。

ちょっと前に書いたけど、「ひきこもりは社会に迷惑かけるな」って意見を講釈される方がいた。その時、あなたも私も社会のおかげで生きているんですよ、と書いた。講釈してきた人は、「自分は積み立てたものをもらっているだけ」と言っていたが。わたしは、実は、積み立てしていたと言うのも、ある種のフィクションだと考えてる。積み立てていたという名目でも付けないと、高齢者に対する多額の支出を正当化できなくなる恐れがあるからだ。だから、積み立てたものをもらっているだけと正当化するのは、ある種正しい行動ではあるんだけど、「積み立て」自体が、高齢者を支えるためにあえてこしらえたフィクションにすぎないかもしれないことは考えた方がいいかも。そのあたりのことは、濱口圭一郎さんの書いた次の記事が参考になる。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-a96e.html

「生産性」といえば、ライブハウスもどこか共通するところを感じる。法律の谷間で、映画館ほど厳しい規制を適用せず、飲食店として扱ってきた。小規模なライブハウスのほとんどが映画館と同じだけの設備を整えるだけの資金がなかったのも一つ原因だが、これとて音楽は「生産性」がないからお金を割いてこなかったのもあるのではないか。まだ見つかってないだけなのかもしれないが、行政が建設した大規模音楽ホールでクラスターが発生したなんて聞かない。あるいは、日本全国に数多ある映画館でクラスターが発生したとも聞かない。映画館も行政が建設したホールも、それなりにお金を使って環境を整えている。実際、映画館は生活衛生同業組合を通じて、有利な条件で日本政策公庫から融資を受けられる。どことなく、ライブハウスに対する冷たい社会の視線を感じる。映画は高尚な芸術なので優遇し、音楽は大した芸術ではないので冷遇する、って。そのしわ寄せは、利用する客が受ける。「低俗な娯楽でしかない音楽なんぞを聴きにいくためにライブハウスを利用する客が享受する安全は、高尚な文化の殿堂である映画館を利用する客が享受する安全よりも低い水準で良い」のか?これはこれである種の優生思想に思える。

なんとなく持っていた優生思想によって、脆弱なまま手付かずにしていたところに、ウイルスが容赦なく襲撃をかける。そんな構図が、わたしの頭の中に浮かんだ。

そして、もうひとつ、COVID-19の感染拡大が容赦なく突き付けたことがある。人間は、優生思想に耐えられない。ウイルスが好きに振る舞った結果は、だいたい優生思想に基づいて行動した時の結果と変わらないのだけど、それでも人間たちは強烈に恐怖を感じている。普段は優生思想を当たり前のように語っている人も。実際に、何十万か、あるいはそれ以上の棺が目の前に並ぶような事態は、人間にとって途方もない、耐えられない悲劇なんだ。ここから、優生思想なるものは、暮らしが満ち足りているときに戯れに口にする思想にすぎないことが導き出せる。である以上、軽々しく優生思想など口にするべきではない。

人間が優生思想に現実的に耐えられないことは、歴史も語っている。過去、万の単位で虐殺が行われたことは幾度もあった。少なくとも、国連成立以後は、そのような虐殺はほぼ例外なく訴追されている。国連自体、二度の世界大戦、それによる百万人単位の死という悲劇を二度と起こさないためにつくられた。そのことは国連憲章の前文に書かれているくらいだ。もしかしたら、かつては優生思想に耐えられる時代があったのかもしれないが、現代では無理。耐えられる人はそんなに多くない。

現在日本政府が検討していると報じられている経済対策の中に、国民全員への一律の現金給付などがある。香港政府はすでに18歳以上の全住民に一律の現金給付をすることにした。すべての人の暮らしを、お金という形で無差別平等に支える。これは、「生産性」をものさしに人の価値を値踏みする考えへの強烈なアンチテーゼだ。これは偶然ではない。ウイルスが優生思想につけこんでいるのだから、ウイルスへの反撃もまた優生思想に対する強烈な反撃にならざるを得ない。また、優生思想に対して強烈に反撃しなければ、このウイルスと闘うことはできない。

最後に。ひとつでも多くの命を。月並みだが、この言葉で締める。

〇参考リンク

■日本厚生労働省

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html

アメリカCDC

https://www.cdc.gov/coronavirus/2019-nCoV/index.html

世界保健機関

https://www.who.int/emergencies/diseases/novel-coronavirus-2019

■中国国家衛生健康委員会

http://www.nhc.gov.cn/