ふらふら、ふらふら

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「我慢」を覚えた先に「安全に、十分に楽しめる世界が待っている」なんて幻想

https://kieth-out.hatenablog.jp/entry/2020/09/04/195754

この記事、元教員の方が書かれたのだけど、ものすごく違和感を感じる。日本の子どもが真っ先に教えられるのは「我慢」で、そういう国ではなかなか満足度なんて上がるはずもないってのはその通り。

なんだけど、「我慢」を身に着けた子どもたちのエピソードを描いて、そのあとに「安全に、十分に楽しめる世界が待っている」とするのは幻想でしかない。「何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない――そう教えられて育つ子どもたちは、結局しあわせになるに違いない。」と書かれてもいるが、もちろんこれも幻想。

ふと、菅義偉官房長官(現在)がテレビで掲げた「自助共助公助」というスローガンとどこかつながるものを感じた。何かを手に入れるためには「自助=我慢」をしなければならない。何かを手に入れるためには「我慢=自助」をしなければならない。「我慢=自助」ができなければ何かを手に入れられないのも当たり前で、だから何かを手に入れられなかったとしても「我慢」しなければならない。ほら、だいたい代入できちゃう。

最初に掲げたブログの筆者、SuperTさんが、意識してるかしてないかは知る由もないが、「何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない――そう教えられて育つ子どもたちは、結局しあわせになるに違いない。」と書いて、「すでに手に入れているもの」に関しては「我慢」は必要ないと読めるような書き方をしている。「すでに手に入れているもの」―それは、たとえば「身分」。

日本に「身分」なんてあるの?と言われるだろうから、例を出しておく。裕福な家庭に育った子どもが、何の努力もしなくても学習だけに打ち込める環境を当たり前のように享受する。これは「身分」―「すでに手に入れているもの」だから、何の「我慢」も必要ない。こうして、富裕な家庭に育った子どもは、実は親に大きく依存して大学に入学しているのだけど、それは「身分」だから咎められることはない。そういう「身分」にない子どもが大学に行こうとしたら、「自助=我慢」を求められる。なぜなら、「身分」を手に入れてないから。さらに、SuperTさんのたとえを借りれば、「安全に、十分に楽しめる世界が待ってい」なかった子どもは、「我慢=自助」が足りなかったとさえ言われかねない。実際に言われるのだけど。

そういう世の中で、「我慢」や「何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない」ことを学び、実践したとしても、「安全に、十分に楽しめる世界が待っている」保証はない。実際のところ、「身分」だけで、「安全に、十分に楽しめる世界」に入れちゃう子どもがたくさんいて、しかも、「安全に、十分に楽しめる世界」の定員は決まっているのだから、「何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない――そう教えられて育つ子どもたちは、結局しあわせになるに違いない。」ってのは、幻想と言える。そのような教えが指し示すことは、「身分」の違いを受け入れ、「身分」にふさわしい行動をし、自分より高い「身分」をうらやまず、黙って従え、ということでしかない。そういうことを教えられて育った子どもたちは、諦めを覚え、「身分相応」に振る舞うことを覚える。しかも、それを「自己責任」として受け入れる。実際は単純に生まれの違いだけだったかもしれないのに。「身分相応」に振る舞う様子ははたから見れば一見「しあわせ」そうに見えるかもしれないけど、「今日何とか生き延びられたからしあわせ」なんて、そんなように思わせる社会だ。

もう一つ。「何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない――そう教えられて育つ子どもたちは、結局しあわせになるに違いない。」ってのは幻想だと示す材料を。常に対価を求められる世界では、生きることにさえ対価を求められるだろう。そうすると、たとえば、障害を持った人には「コスト」が余計にかかるのだから、「コスト」を負担せよ、そういう論理に容易につながる。その「コスト」を負担できなければ、安楽死せよ―とはならないか。「あなたは健常者とは「身分」が違うのだから、健常者という「身分」と同じことをしたいのなら、特別に費用を払いなさい」―そういうように教えられる社会で「しあわせ」に生きられるはずもない。その先に待っているのは、「安楽死」だ。

とりあえず、障害者は生きるだけでもコストがかかるから安楽死せよ、なんてことがおおっぴらに言われるような状況では今のところない。だけど、障害者はコストがかかるからLCCに乗るな、って意見は、まま見られた。

https://togetter.com/li/1124901

「障害者」という「身分」の人間が、「健常者」と同じように飛行機に乗ろうなんて「身分不相応」なことをするなら、「我慢=自助=特別料金を払え」と。「何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない」という教えが、かなりグロテスクな形で現実に適用された例。

もっとも、「身分相応」に「安楽死」するのもしあわせなんだと強弁するなら、それは価値観の問題であるから、何も言うことはない。

最後。これ、究極の話。ご存知の通り、日本では少子化が急激に進んでいる。この急激に進む、社会の存続すら危うくするレベルの少子化を、日本の現状に対する「ノー」という民意の反応だとする見解がある(2019年7月24日、朝日新聞夕刊「現場へ! 人の減る国(3)」)。はたして、そういう社会に住んでいる人が、「しあわせ」を感じているなんて考えているのだろうか。そうだとしたら、あまりにも能天気としか言いようがない。