ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「多様な学び」ではなく「多様で平等な居場所」を

 「多様な学び」、字面はいい。その子どもに合った多様な学びの場が選べるのは、よいことに見える。だが、それは「身の丈に合った教育」と、例の文部科学大臣の発言を容認しかねない危険なものでもある。

 では、みんなが学校に通うようにしましょう、学校に通えない子どもは「治療」して、学校に通えるようにしましょうってのも、それこそ地獄だ。

 何かが足りない。何が足りない。「平等」だ。

 学校は、「みんな同じ」を追求する。「みんな同じ」は、平等を意味しない。同じになれない子どもを排除してしまう。平等のように見えて、学校はぜんぜん平等ではない。ものすごく選別的だ。義務教育を終わるころになると、露骨に選別が始まる。学力偏差値に応じて進路が振り分けられる。不登校の子どもには、なぜかバカ高い通信制(それも雑居ビルのワンフロアを借り切っているだけのサポート校もセットで)だけしか行くところはないですよと言われたりする。わたしが中学校を卒業するときがまさにそうだった。これからの進路なんてまったく決まらないまま、この先どうしようと思っていたところに、渡された一枚のパンフレットがサポート校のものだった。不登校の子どもだからサポート校がいいでしょうと、いつの間にか勝手に見繕われてパンフレットが用意されていた。自分の意思はついぞ聞かれなかった。そんなわけで、学校は選別的で、決して平等ではないことの説明終わり。

 そんな学校に嫌気がさして、学校以外の学びの場を求める子どもが行きついたのがフリースクールフリースクールは平等かと思えば、さにあらず。フリースクールに通うだけのお金を払える家庭の子どもしか行けないし、そもそもフリースクールなんて行かせようと思わない親だったら、子どもがフリースクールに通うのは絶望的だ。これも自分の実体験。フリースクールも平等ではない。

 多くの子どもがフリースクールに通えるように、行政が経済的支援をという文脈で立ち上がったのがオルタナティブ教育法を求める市民運動。それは、紆余曲折のうち、多様な学び保障法を求める市民運動になり、教育機会確保法として結実した。この法律、評価がかなり分かれる。推進した人たちは多様な学びがついに認められたと高く評価している。反対した人たちは公教育の解体を進めると反対。ただ、わたしが思うに、この法律の弱点は、平等という理念にはあまり熱心ではないことだ。多様な学びがあるのだから、必ずしも学校に行かなくてもと、学校が子どもを追い出す口実に使える法律にはなっている。やっぱり平等だ。平等が足りない。

 学校もフリースクールをはじめとする多様な居場所も、すべての子どもに平等に開かれていなければならない。すべての子どもに平等に開くために必要なインフラとはなんだろう?という問いを原点にして考えていくと、今よりはよりよい法律になる。具体的な制度論についてはわたしの能力を超えるので、ここでは触れない。ひとつの手がかりとして、社会教育法を活用できないかとのアイデアは提示しておく。社会教育は「いつでも・だれでも・どこでも」と、平等を目指す指向がもともとそれほど弱くない。これを使わない手はない。