ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「無敵の人」の苦痛は「支配のためのコスト」

 法務省法務総合研究所の研究「無差別殺傷事犯に関する研究」*1をめくった。この研究によると、無差別殺傷事犯の加害者の99%が男性であった。一方、被害者は「一般殺人に比べると,女性と子どもの比率が高い。」とのこと。無差別殺傷事犯の加害者が、効率よく攻撃できる弱者を標的にしていることは明らかだ。考えてみれば、無差別殺傷事犯の加害者が警察署を襲撃したなんて報道に接したことがない。標的になるのはいつも非武装の民間人。それも女性とこども。孤独になりやけくそで犯行に及んだ割には、冷静に標的を選んでいるように見えるのはわたしだけだろうか?

 わたしはここに、無差別殺傷事犯加害者の「立場性」を見出す。男性で、女性やこどもに強く当たれる立場で。単純に「孤独」「孤立」の問題としてはならない。

 さて、そんな無差別殺傷犯人を「無敵の人」と名づけ、「社会がこんな待遇しか与えてくれないなら自分も無敵の人になっちゃうよ」なんて書き込んでいる人間たちがいる。昨日、旧Twitter上でそんな人間たちの相手をした。そんな人間たちの書き込みを見ていると、どうも、稼得役割を担って一家の家長になって女性とこどもを支配する立場になれなかった私憤をぶつけているようにしか見えない。端的に言って、そんな私憤は、「支配のためのコスト」に過ぎない。支配のためのコストは支配のためのコストなのだから、それを「生きづらさ」と呼ぶことはとても反動的だ。そんな底意がありそうなものだから、いざ自分が稼得役割を担えるだけの収入を得ることができたら、手のひら返して自己責任論を振りかざし始めるに違いない。そのことは、たとえば彼らが「労働組合」なるものに対して極めて冷笑的であった事実を指摘すれば十分に証明できるだろう。連帯や協同といったものに価値を見出していない。自分さえ資本主義の勝者になれればいい。そんな本音が透けて見える。結局、「無敵の人になるぞ」と書き込んでいるような人間も、自己責任論者とコインの裏表。

 最後に、少しだけ展望を。この日本社会は「何かが」平等ではないのは確かだ。「何かが」有利な状況にあるひとと不利な状況にあるひとに分かれている。「自分も無敵の人になっちゃうよ」とのたまっているひとは、「何かが」不利な状況にあるひとであるのは事実なのだろう。とはいえ、そこでふてくされて無差別殺傷起こしちゃうという前に、あなたが不利な状況に置かれているゲーム盤自体を疑ってみてほしい。ほんとうにそのゲーム盤しかなくて、そのゲーム盤で勝者にならなければすべてが終わりなのか。そのゲーム盤をひっくり返した後に別の世界はないのか。スマホの狭い画面から見える狭い世界にこだわり過ぎていやしないだろうか。実際は、もっと豊かな世界が広がっている。例えば小商いの世界だったり、社会的連帯経済の世界だったり。貪欲に利潤を追求する資本主義のゲーム盤が唯一無二のゲーム盤であることを疑い始めた時から、新しい世界は広がる。「プランB」はすでにある。

夕方の「タカノバキッチン」。、正面に仮店舗と仮店舗前の広場、右側にキッチンカーが見える。

松本市松本城北側地区にある「タカノバキッチン」。個人で店を経営しようとするひとたちがスペースをシェアしている。

 たとえば、このような場所を見た時に、わたしはある種の「ゆたかさ」を感じるのだが、「無敵の人になっちゃうよ」と言って回っている「あなた」はどうだろうか。社会的連帯経済については下記の連載をお読みいただきたい。

shukousha.com

続き

syou-hirahira.hatenablog.com