ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「ある」を支えず、「する」を求め続ける国

毎年、年末になると、フリースクールなどを運営するNPO法人越谷らるご(埼玉県越谷市)にて、芹沢俊介さんの講演会がある。わたしも毎年のように聞きに行っている。そんな芹沢俊介さんの本の書評が「ひきポス」にもアップされていたのでご紹介。

https://www.hikipos.info/entry/2020/03/16/070000

芹沢俊介さんは、毎年のように、「ある自己」と「する自己」の話をして、「ある自己」を回復するために「する自己」を一時退却させる、それがひきこもり状態なのだとおっしゃっていた。わたしの理解もずいぶんラフな理解なので、正確に説明できているかは心もとないが。

「ある自己」とは、存在するそのままの自己。「する自己」とは、自己のうち、仕事を含めて何かを「する」部分のこと。講演会では前者をbeing、後者をdoingと対比させていた。

ふと、思った。現在は「ある自己」が大事にされなければならない局面ではないか。何かを「する」のではなく、今ここに「ある」こと。それこそがとても尊いもの。今ここに「ある」ことは、ずっと尊いものだったのだけど、今までは何かを「する」ことにばかり価値を置いてきた。働くことだったり、社会的な役割を果たすことだったり。とりわけ、働くことで何かしらの生産をすることに重きを置いてきたのは否定できない事実。そこから、人間の「生産性」なんてものを問うような思想が生まれてきて、そのような思想は相模原で障害のある人たち19人の命を奪った。

それが一転して、何かを「する」ことよりも、いまここに「ある」ことの方が尊いものになった。少なくとも、医療従事者はそのように発信している。「生きているだけでも幸せだと思って」と。

ところが、そんなに一気に世の中変わらない。今でも、何かを「する」ことが求め続けられている。そもそも、2月の終わりごろから、「する自己」、さらに具体的に言えば、「生産する自己」としてのみ生きることを要請されるようになってしまった。「ある」を支える「居場所」は真っ先に閉まった。毎日、ひたすら生産を求められるのに、「ある」を支えるものはほとんどない。それでは、さすがに鬱屈もたまる。3月の3連休は、その鬱屈が少しばかり弾けてしまったのではないか。

未だに、政府は、「ある」を支えることなど考えてない。2012年に政権に復帰するときに打ち出した「手当より仕事」との思想をかたくなに守り続けている。なので、「ある」を支えるために、たとえば住民一人当たりに一律のお金を支給するなんて施策は考えもしない。「ある」ことが認められるのは、「する」をこなしたことの対価としか思ってない。

さすがに公衆衛生の専門家もしびれを切らしたらしく、「補償は必要だ」と口々に言いだした。一番最初に言い出したのは岡部信彦先生だったか。そのあと、次々と補償して休業させろと主張する専門家が相次いだ。今時の人である北海道大学の西浦博先生も言ってる。神戸大学の中澤港先生は「この政権,本当にケチだしまともな思考力がないなあ」と酷評した

北海道大学の西浦研究室のサイトを見た。「ごあいさつ」に、「「衛生学」は「生をまもる」学問という意味で作られたもの」と書いている西浦博先生が、今一番悔しい思いをしているだろう。「生をまもる」つもりがない政権に対して。先生も、「すぐ休業補償をしてハイリスクの場所を閉じることはすぐやってください」とずっと言っていたとのこと。それでも、官邸は、一向に聞き入れようとしない。

そんなこんなを見ていたら、さすがに、なんで居場所だけ止めるんだ、というような人が出てきてもおかしくないし、実際にFacebookでそういう人を見た。わたしは、COVID-19の流行に関してある程度知識があったから、こういうことなんですよと説明はした。だけど、ものすごく虚しさが残った。その人は、そんなことを聞きたいんじゃない。そんなことはわかっていた。その方は、多分、「ある」を支えるつもりもないのに、「命を守るため」と称して「ある」を支える場所から真っ先に潰して、そのくせ、「する」だけはしっかり求める政府の方針がものすごく許せなかったのだと思う。わたしもこの点に関しては同意見で、なので、いくら感染症に関する知識をもとにコメントしてみても、論点はそこじゃないんだよなあと思うので、虚しさだけが残る。こんな不毛な議論をしなければならなくなったのは、政府がやるべきことをやらなかったせいで、政府の代わりに広報活動したんだから報酬をくれてもいいくらい。コメント一つで5万円くらいかな。半分は冗談だけど半分は本気。

日本に住むたいていの人にとって、今でも「ある」は「する」の対価でしかなく、そんな中で、「する」という対価を払わなくても「ある」を保障されている人から「生きているだけでも幸せだと思って」なんて言われても、なんと浮世離れしたことだろうと冷たい目でしか見られない。たとえば、こういうツイート。

https://twitter.com/AbeShinzo/status/1249127951154712576

こういう投稿は、「する」の対価としてしか「ある」を受け止めてもらえない人たちには、このように見える。

https://twitter.com/nittasen/status/1247879411707199488

故・山田花子さん(漫画家)の父、高市俊皓さんは、「改定版 魂のアソコ」に、「現存する社会―資本制的社会―においては、人はただ自己の生産物を、或いは自分自身を「商品化」することによってのみ生存することを許される」と書いていた。この指摘、今ほど突き刺さるものはない。感染して死亡するリスクなどとっくに承知なのに、それでも、自分を「商品」として売りに行かなければ生存すら許されない。このシビアな現実、「ステイホーム」なんて言ってる人にどれだけ共有されているだろう?

とはいえ、「手当より仕事」を掲げた自民党政権を支持してきた人はそれなりにたくさんいるわけで、だからこそ自民党はこれまで政権の座にいた。非常時になったからとそんなに変わったことをするわけでもなく、いつもと同じように「する」の対価としてのみ「ある」を提供すると考えてるだけ。いつもの時の考えをそのまま今も持ってるだけ。そして、その考えは、何も自民党だけが持っているのではなく、「ひきこもり」を「怠け者」と考えるような善良な一般市民の皆様も等しく持っている。

「ある」を支えよ、と声を上げなければならない。「ある」は「する」の対価ではないと声を上げなければならない。生産性にのみ価値を置く考えから脱却しなければならない。「ある」を支えてもらえず、ただ「する」ことのみを求められては生きられない。これこそが今直面している大きな課題。そして、この課題は、これまでも一部の人にとっては切実な課題だったんだけど、ほとんどの人は見向きもしてこなかった課題。それが、今、極端な形で突き付けられている。

厚生労働省は、今日、「生活を守る」プロジェクトチームを結成した。

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_10840.html

だけど、これまでがこれまでなので、大して期待していない。官僚の皆さんは青雲の志を持っているのかもしれないけど、官邸にいるのがアレなので、多分官僚が青雲の志を持って提案した「生活を守る」ための施策も、官邸が潰すのだろう。

これまで、COVID-19に関して柄にもなく医学に足を突っ込んでみたり、あれこれ書いてみたけど、この記事が一番自分の率直な感情を表している。