ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

校則のコストは、無視されている

かねがね思っていたことなんだけど、校則のコストって無視されている。校則を定めるのは教師だけど、コストを払うのは子ども。

結果、コストは無視されたまま、果たして子どものためになっているのかよくわからないような校則が次々追加される。

そのいい例は、学校への携帯電話持ち込みをめぐる校則。文部科学省が音頭を取って導入されたものだが、その理由にいじめ対策が挙げられていた。このあたりの経緯は「学校における携帯電話の取扱い等に関する有識者会議(令和元年度)(第1回) 配付資料」(文部科学省)に詳しい。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/150/shiryo/1417770.htm

で、携帯電話持ち込み規制をした結果、いじめが減ったわけではなさそうなのはみなさんご存知の通り。このことは国立教育政策研究所のいじめ追跡調査報告書に。

https://www.nier.go.jp/shido/shienshiryou/index.html

2004-2006年の調査報告書は「今回の追跡調査(2004-2006 年)、また前回の追跡調査(1998-2003 年)の結果を見る限り、「いじめにピークがあったとは考えにくい」と言わざるを得ません。調査時期によって、若干の変動はありますが、むしろ「似たような割合で子どもたちはいじめを経験している」と言うことができるでしょう。」としている。2013-2015年の調査報告書も、次のように書いている。

 前回までの結果と今回の結果とを合わせた 12 年間の傾向を見てみると、中学男子では平均 32.2%で±8%程度の増減、中学女子では平均 39.6%± 10%程度の増減であることがわかります。一時的な増減は見られるものの、特に急増したり急減したりするということはありません。いじめは常に起こっているものであり、" 流行 " とか " ピーク " という表現は、実態を誤ってイメージさせる不適切なものであることが分かります。
 また、2006 年秋のいじめの第3次社会問題化や 2012 年夏の第4次社会問題化の時期、それに続く「いじめ防止対策推進法」制定に至る時期やその後の時期、等においても、特に急変はしていないことが確認できます。いわゆる「問題行動等調査」における「認知件数」の増減はマスコミ報道等の社会的な要因によって左右されやすいのに対して、実際に起きる児童生徒間のトラブルはそうした影響を受けることなく常に起きている、と正しく理解しておくことが大切です。

素直に読めば、携帯がなかろうといじめは起きていて、携帯を規制したっていじめ防止にはつながらないと読める。携帯をめぐる校則は、子どもにとって何のいい結果も出せなかった校則の最たるもの。政治家の人気取りのためだけに、子どもに負担だけを強いた校則だった。

何の結果も出せないようなムダな政策は早々と打ち切られるのが世の常だけど、その政策を実行するための負担をするのが子どもだけとなれば政策は続けられる。

そして、学校の言うこと、偉い人の言うことに従順な人間が育てられる。その結果としての礼儀正しさなどをとらえて「日本すごい!」と言った元教師もいたけど、むしろ日本終了にターボかけたようにしか思えない。

学校に育てられた従順さ・礼儀正しさの結果としての「おもてなし」。おもてなしが過剰だから生産性が低い。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-ce16.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8791.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-107c.html

安い賃金で至れり尽くせりのサービスを提供する日本の働く人。そのような態度は、間違いなく日本の学校教育が育てた。これを誇れることと考える教員はそれなりにいるだろうが、全然誇れることじゃない。

安い賃金でこき使われるこの国の現状に「ノー」を突き付けた結果が少子化。安い賃金なんだから子どもを育てることなんかできないよね。外国なら労働争議が起こるけど、日本だと労働争議特別天然記念物。これも、日本の学校が育てた従順な態度のおかげ。

本の学校の校則は、こんな重大な負の作用を生んでるんだけど、そんなことは考えずに今日もまた教師たちは生徒指導に勤しむ。どれもこれも、教師たちがやることの結果をかぶるのは教師以外の他人だから。