ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

校則(に限らず世の中のルールすべて)は単なる妥協の産物

学校の校則なるものがどういうものなのか、大変よくわかる体験をつい最近埼玉県の県立高校生はしたはずである。

もう、本当に去年までは、「高校生活にバイクは不要」という方針のもと、バイクの運転免許を取ろうものなら謹慎にされて反省文を書かされていた。ご丁寧にも、毎年毎年「高校生活にバイクは不要」という趣旨のリーフレットまで作成していた。その内容がなかなか面白い。まあ要するに高校生活の熱い感動とやらを体験しろ。今すべきことを考えてよりよい人生の基礎作りに真剣に取り組め、そのためにはバイクは不要と。まあ、そういうリーフレットだった。

これが一転、今年の4月1日からは、埼玉県立高校でも生徒のバイク免許取得が認められるようになった。それまで言っていたこと、やっていたこと、反省文はなんだったんだろう?

学校の先生は、校則違反は道徳的にけしからんことである、校則に違反するようでは社会ではやっていけないなどと脅す「指導」をする。だが、その校則とやらも、県の教育局からの通達ひとつでコロッと一変するようなものだ。しかも、その通達、元をたどれば県議会での質疑が発端。

校則なんていらないとは思わない(本当にどうでもいい、いらない校則は多いけど)。ただ、ある時点での校則は、ある時点で「よりまし」だと学校の先生が考えたものが落とし込まれていると考えた方がいい。要は、単なる妥協の産物。絶対的な真理ではない。

で、法律だって妥協の産物で、その時点ではよりまし程度のことを定めている。特に近年のような状況だと、たくさんの法律が大きく変わっている。どういう法律がよりましなのかをああでもないこうでもないと考えるのが国会という場所。

「議員に頼んで行政に手心を加えてもらおう」と考える人は割と多いんだけど、「議員に頼んで法律などを改正してもらおう」と考える人はめったにいない。後者の方が、よっぽどまっとうな民主主義国家の市民の行動なんだけど。

ちょっと話は逸れたが、校則は別に不磨の大典でも絶対的な真理でもなく、その時々の利害当事者の間で調整と妥協を繰り返した結果を文章にしただけのもの。これからもいくらでも変わるもの。

なんだけど、その妥協の産物を作るプロセスに、一番の利害当事者である生徒を参加させないのはいかがなものだろうか。