ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

拘束的社会資本がますます幅を利かせていく昨今

家族共同体をますます当てにする国

synodos.jp

 結構前にこの記事を読んでいたんだけど、最近の日本、ますます拘束的社会資本が幅を利かせていく方向に進んでるなあ。

 この記事では、「民族自助集団、教会の女性組織、カントリークラブなどを例にあげて、こうした内的志向的で、集団間のアイデンティティを強化する社会資本も世の中に存在していることを指摘し、これを「ボンディング(拘束)型社会資本」と命名している。」「これに対置されるのは市民運動や若者支援団体といった「ブリッジ(架橋)型社会資本」であり、これは弱い紐帯からなり、既存の社会集団間をつなぐことのできるような社会資本である。これは、「同質」な人間や組織しか信頼しない「拘束型」に対して、「異質」な人間や組織をも信頼できるような資本」とある。

 社会資本として家族共同体が強い力を持っている富山を、「自由度の高い地域、つまり「弱い紐帯」の地域であるとは少なくとも言えそうにはない」としている。これは感覚としてわかる。家族なるものは実際のところ相当に拘束的。性別役割分業をはじめ。

 そして、最近、特にここ1~2か月の日本の状況を見ていると、ますます家族頼みの方向が強くなってきている。文部科学省が手作りマスクの普及とか言い出した時点でぶっ飛んだ。その手作りマスク、誰が作るのよ。稼ぎ手の夫+専業主婦と子どもという世帯を「標準」としている自民党政権らしいなとは思った。だけど、そんな野原家のような家庭は今そんなに多いわけではないし、どこの家庭にも野原みさえがいるわけではない。

 まあ、仕方ないと言ったら仕方ないのかもしれないが、家族共同体の強化の方向に進んでいる一方で、市民運動や若者の居場所的なものはどんどん弱くなってきてしまっている。そんなところにも居場所を見出してきたわたしにとってはとてもきつい状況。

 そして、極めて重要なのは、家庭が安全ではない人が、日本にもたくさんいる。そういう人たちにとっては、家にいることが半ば強要されるような今の状況はなおさらきついのではないか。

 これも、伝統的な家族なるものを重要視してきた結果で、それは、香川県のゲーム規制条例にも見事に現れている。曰く、保護者は子どもに愛着を持たせるように育てろ、そうしたらゲーム依存にならないんですと。条例で家族関係を何とかしようとするのが相当に強引で、条例とか法律で人間関係を作れるくらいなら苦労はしない。ともかく、伝統的な家族なるものを重視して、そこからはみ出る人たちに冷たい視線を送ってきた自民党が、今のこの状態を作り出した。

 オルタナティブはちゃんとある。一例として、一般社団法人Colaboを。

colabo-official.net

 この団体、単なる支援機関というより、むしろ、新しい関係性を作ろうとする一種の共同体、まあこれも社会資本だが、そういう性質を持っているように見える。シェアハウスも運営していて、これは家族に代わりうる新たな共同体ではないの?と考える。シェアハウスに入居しているひとたちは、家族に代わる絆の中で、今も暮らしているのだろうと思う。これはとても重要なことだ。

社畜量産国家・日本

 もう一つ、余談。居場所的な場がバタバタと閉じていく中で、それでも企業活動はあまり止まってない、これはやっぱり違和感を感じる。それこそこういう陰謀が背後にあるんじゃないかと思うくらい。

 今日の首相記者会見でも、文化芸術分野の人たちへの損失補償はするつもりがないとのご様子だったし、どうも、国民は社畜として経済の歯車として働いておけばいいと本気で考えている節がある。

 まあ、経済活動は重要だ。それは否定しない。だが、何十万人も死ぬ大嵐が来るかもしれない時に、仕事と居場所、どっちを大切にしたいかと問われたら、わたしは間違いなく居場所と答える。優先順位間違ってるよと思ってしまう。

 以前、ハフィントンポストの記事にこんなことが書いてあった。「会社から言われたのでしょうがないが、感染者が急増している都内にいるのは怖い。できれば仕事は休んで自宅にいたい」と本心を漏らした方の気持ちはよくわかる。わたしだって、東京都内で働いていたら仕事なんかしないで家にずっといたい。そこまでして生産だけは回したいのかと、呆れるばかり。