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2065年を生きる世代に対して負うべき倫理的義務

 国立社会保障・人口問題研究所による、2017時点での将来人口推計によると、出生中位・死亡中位シナリオで、2065年には4189万人の20~64歳人口で3381万人の65歳以上人口、1237万人の19歳以下人口を支えることになる。子どもも含めた支えられる側の人口が、現役世代の人口を上回ることになる。ちなみに、2019年時点では、3588万人の65歳以上人口、2103万人の19歳以下人口を6925万人の20~64歳人口で支えている(総務省統計局「人口推計」)。この数字を見る限り、2065年の65歳は、2019年の65歳よりもかなり過酷な生活を強いられることになりそうだ。もはや説明するまでもないだろうが、2065年の65歳は、2020年の20歳だ。

 さて、その2020年の20歳は、従来では考えられなかったような制限の下で生活している。本来なら生まれ育った家庭を飛び出して、新しい人間関係を結ぶような活動が活発になる年代。ところが、パンデミックの影響で、生まれ育った家庭に閉じ込められることになった(単身生活を送っている20歳もいるが、外に出て積極的に人間関係を結ぶのを制限されるようになったのは同じだ)。ステイホームとかソーシャルディスタンスとか、そういう名前で呼ばれている措置によって。そういう措置が、長期的にどのような影響をもたらすのかを正確に予想できる人はおそらくいない。しかし、長期的な影響をまともに受けるのは、今の20歳である。

 もちろん、感染症の蔓延という差し迫った危険を避けるためのやむを得ない措置であることは承知している。そのような措置によって主に恩恵を受けるのが高齢者で、影響を受けるのが今の若者であることをあげつらって否定するつもりはない。 とはいえ、高齢者が恩恵を受け、影響を受けるのが若者であることを無視するのは許されない。若者が負っている痛みを分かち合うことが必要だ。過酷な生活が予想される2065年の世界を残してこの世を去っていく世代は、2065年を生きる人たちに対して、倫理上の義務を負っていると言ってもよい。

 

 では、2065年を生きる人たちへの倫理的義務を、どういう形で果たすか。短期的には、経済的に豊かな人たちが応分の負担をすることが考えられる。たとえば資産所得の総合課税、基礎控除の引き上げと一体となった年金所得の控除引き下げなどによって。

 しかし、果たすべき倫理的義務はそればかりではない。2065年を生きる世代を尊厳を持った存在として扱うこと、自分たちのわがままで2065年を生きる世代を振り回さないこと、これも重要な倫理的義務だ。

 たとえば、夫婦別姓内閣府の「家族の法制に関する世論調査」によれば、高齢者ほど選択的夫婦別姓制度を認めない現行の法律を改める必要はないと回答している。その割には姓が違っても家族の一体感が弱まることはないと回答している人の割合は世代によってさほど変わらないのだが。そしてそれは、画一的な家族関係を若者に押し付けていることでもある。画一的な家族関係の押しつけは、夫婦別姓反対に限らずさまざまな場面で見られる。ともかくも、現状は、高齢者の「夫婦別姓など必要ない!」というわがままに2065年を生きる若者が振り回されている。そんなことはもはや許されない。

 これは一例だ。過酷な社会を生きていかなければならない2065年の65歳に対し、今の高齢者は、2065年の65歳が生きやすいような社会を残していく責任がある。今の高齢者だって、しっかり社会に支えられて生きてきたのだから。「ワシらだけよければ若造などどうなっても知ったことではない、ワシの年金だけ何とか確保しろ」という態度は、倫理的態度とは言えない。

 

 今現在生命の危機に直面している高齢者が、若い世代に協力を求めることは否定しない。むしろ協力する必要があるだろう。しかし、その結果としてどういう影響を受けるのか予測できないうえに、パンデミックの影響がなくても過酷な社会を生きなければならない若い世代に対し、そのような社会にしてしまった高齢者が負う倫理的義務は重い。