ふらふら、ふらふら

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沈黙が賛同になるとき

 ある当事者間に力の格差があるとき、ただ沈黙することが、力の強い者への賛同になることがある。その典型例は1994年のルワンダ虐殺である。国連広報センターが、ルワンダ虐殺とそれに対するルワンダ国際戦犯法廷の活動を紹介した動画を公開している。当時、虐殺を扇動した千の丘自由ラジオの音声も入っている。悲惨なシーンも入っているので、視聴するときは要注意。

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 千の丘ラジオが「ツチ族は邪悪だ、皆殺しにしなければならない」と放送しているとき、そのような放送を「表現の自由」として擁護すること、あるいは、数ある言論の一つとして紹介するとき、あなたは、ルワンダ虐殺の加害者に賛同したことになる。ルワンダ虐殺に対して、国際社会は何もしなかった。現地司令官が一貫して強力な司令と部隊の増強を求め続ける中、国連は何もしなかった。何もしなかったことが、虐殺者にとって大きな力になった。沈黙は、時に残虐行為への賛同になる。気軽に「表現の自由」を持ち出して、ある言論を放置することで自らはイノセンスな存在にとどまれたと思うかもしれない。だが、それが、虐殺者に力を与えることがある。

 わたしが好きな言葉がある。有川浩の「図書館戦争」シリーズの中で、柴崎麻子が語ったセリフだ。

お膳立てされたキレイな舞台で戦えるのはお話の中の正義の味方だけよ。
現実じゃ誰も露払いなんかしてくれないんだから。
泥被る覚悟がないなら正義の味方なんて辞めちゃえば?

有川浩「図書館内乱」より

  ある言論の良しあしを「決めない」ことも、何かを「決めた」ことになる。たとえば、「ツチ族は邪悪だ、皆殺しにしなければならない」なんて内容を放送することの良しあしを「決めない」ことは、虐殺者に賛同することを「決めた」ことになる。

 ある言論の良しあしを決めないことで自分の手を汚さなかったと考えてる人たちに言いたい。その決定だって、何かを決めたことであると。何かを決めたことで、血は流れる。泥はかぶる。そんな泥をかぶる覚悟がないなら、言論の自由なんて気軽に振り回す正義の味方なんて辞めてしまえ。