ふらふら、ふらふら

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「言論の自由」をめぐる覚書

言論の自由」には「批判の自由」も含まれる

 この間、言論の自由には批判の自由も含まれることを踏まえない意見が多数見られた。「言論の自由」が、何らの批判も受けず、ただ受容される権利を指すものと勘違いしている。そして、批判に対し「暴力」とレッテル貼りをする。そのくせ「言論の自由」を偉そうに講釈する。言論の自由を言うなら、そして、どんな意見も受け入れると言うなら、批判言論の自由をも受け入れるところから始めなければならない。批判に対し「ネット暴力」や「いじめ」とレッテル貼りをすること、批判を受けたことを「被害」と述べるのは失当である。それどころか、誹謗中傷でさえある。

寛容のパラドックス

 徹底した寛容は、結局のところ人権をすべて破壊しつくすことを、人類は20世紀の間に少なくとも2回経験している。どんな意見・言論をも言論の自由として保護するってことは、「ユダヤの民を絶滅させよ」や「みにくいツチを墓場に送ろう」と言うことをも「言論の自由」として保護することになる。その結果何が起こったかはもはやわたしが言うまでもない。寛容の名の下にどのような言論をも放置することは、しばしば国際法上の犯罪を引き起こす。わたしが、以前国際法を持ち出したのは故なきことではない。そのような国際法上の犯罪という悲劇に直面した国際社会が、国際人道法と呼ばれる倫理基準を作り出した。

 言論の自由は無制限ではない。人間の尊厳を害する言論の自由は、存在しない。当然、差別発言の自由なんてものも存在しない。

 「庵」がついに終焉を迎えたのは、寛容のパラドックスに適切に対処できなかったからだ。寛容であることは悪くないかもしれない。しかし、すべてに対して寛容であることは、「ヘイトスピーチの自由」「犯罪行為に及ぶ自由」にまで寛容であることを意味した。その結果庵は自壊した。寛容は本当は難しいのだ。

追記:ぼそっとさんブログの件に関して

 あれこれ憶測が飛び交っているが、何が起こったのかはわたしだってわからない。着手しようとした案件はひとつあったが、着手しようとした矢先に削除されてしまって、こっちが逆に驚いた。それから心当たりのある筋を方々聞いてみたが、誰も事情を知る者はいなかった。何が起こったのかわたしのほうが知りたいくらいですよ。

 もっとも、利用規約を隅から隅まで読んで、あれ?これかもしれないと思う条項は2つばかりあったので、それかもしれない。

追記2:続・ぼそっとさんブログの件に関して

 その後、信頼できる筋から情報を得ることができた。利用規約のある項目にひっかかってはてなが措置したとのことである(って、本人が削除してなければ当たり前だが)。これ以上のことは本人の個人情報もあるので書かない。

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