ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

街で暮らしているのは「ケアレス・マン」だけではない

 人間とは、実に面倒な生き物である。病気をすることもある。年老いて要介護状態になることもある。生まれてからしばらくの間は誰かが面倒を見てやらなければならない。幼い子どもはときにけたたましい。心配事があって何も手につかなくなることもあるし、精神状態だって一定の規格に収まるものなどでは決してない。毎日食事をしなければいけないし、睡眠が十分にとれなければ病気にもなる。人間が暮らしていくってことは、そんな「面倒」と付き合っていくことである。そんな「面倒」と付き合う営みを、「ケア」と呼んだりする。

 ところが、人間がそんな面倒な生き物であることを忘れさせる空間がある。オフィスだ。オフィスには、そんな「面倒」は持ち込まれない。あるいは持ち込んではいけないものとされている。「ケア」など必要ないかのように振る舞っている人たちばかりが集まっている、よく考えたら不自然な空間だ。オフィスにいる人たちが「ケア」など必要ないかのように振る舞っていられる裏には誰かの「ケア」が存在するわけだが。「ケア」など必要ないかのように振る舞わなければならないような職場のありかたを、労働法学者の浅倉むつ子さんは「ケアレス・マンモデル」と呼んだ。ここでいう「ケアレス・マン」とは、「ケア」にコミットすることがない労働者(主に男性)のことを言う。ここでは粗い説明にとどめるので、詳しくは上西充子「呪いの言葉の解きかた」(晶文社、2019年)をお読みいただきたい。

 さて、「ケア」をどこかに放ってきた人たちが、突如として人間は「ケア」が必要なものであるとの事実を否応なしに突き付けられることになった。日中の主な活動場所が、「ケアレス・マン」しかいないオフィスから「ケア」の現場である住宅街に移ったからだ。「ケアレス・マン」たちの日中の主な活動場所が住宅都市に移った理由が、コロナ・パンデミックによるテレワークが強力に推進されるようになったためなんてのはもはや説明するまでもないだろう。

 住宅都市が「ケア」の現場であることを示す統計を一つ示そう。「平成26年経済センサス基礎調査」の結果によると、オフィス街である千代田・中央・港の3区で働く人たちの数は、多摩地区の市部で働く人たちの1.82倍だ。ところが、医療・福祉分野で働く人の数は逆になる。多摩地区の市部で医療・福祉分野で働く人の数は、千代田・中央・港の3区で働く医療・福祉分野で働く人の数の2.9倍になる。多摩地区で働く人の16.41%は医療・福祉分野で働く人だ。まさに、多摩地区の住宅都市は「ケア」の現場だ。

 「ケアレス・マン」しかいなかったオフィスで働いていた人たちが、「ケア」の現場である住宅都市で働くようになったことにより、厄介な現象が起きている。それは、「道路族被害」を訴える人の増加だ。「道路族被害者」たちの中には、道路で遊ぶ子どもをテレワークの妨げになると訴える人たちがかなりいる。さらに厄介なのは、住宅都市が「ケア」(子どもの遊びを確保するのも「ケア」に含まれるだろう)の現場であることを否定し、住宅都市を「ケアレス・マン」しかいないオフィス街のようにしようと目論まんばかりの人たちの存在だ。昨日の記事で触れた「道路族マップ」管理人氏の「ケア」が必要な子どもをどこかよそに追いやりたいとする思考からは、そのような目論見を持っているかのように感じてしまう。

 当たり前だけど、「ケアレス・マン」しかいないオフィスのほうが特殊な場所なのであって、人間が暮らす場所では常に「ケア」が行われている。それは、人間が「ケア」を常に必要とする生き物だからだ。そのことに目を背け、「ケアレス・マン」以外をどこかに追いやろうとすれば、容易に優生思想に行きつく。わたしは、そんな考えをとても怖いと感じる。

 「ケア」が必要な人も街にいるのが当たり前、「ケアレス・マン」だけの場所は作れない。その事実を前提として共有できるのなら、「ではどうやってケアを提供しようか」の方法論の話に移れる。しかし、「ケアレス・マン」ではない人たちをどこかよそに追いやろうとしているのなら、それは、人間が存在することの否定にしかならないので、はっきりと抵抗する。「街は、ケアレス・マンの専有物ではないぞ」と。