ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

「高校生」なるカテゴリーについて考えた一日

 今日は電車に乗って地下鉄博物館に。その車中で、はてなブックマークのマイホットエントリ見てたらこの記事が。

www.saga-s.co.jp これは画期的な取り組みだと、画像を見て感じた。「高校の制服」って、一定のフォーマットがあって、そのことが、「これを着ているのは高校生ですよ」ってシグナルを発する機能を持っている。ところが、この嬉野高校の新しい夏の制服、これまでの「高校の制服」のフォーマットに沿っていない。着ていても、「これを着ているのは高校生ですよ」ってシグナルはあまり感じない。そのことが画期的だと感じる理由になった。

 このことについてやや詳しく説明する。「制服」は、「高校生」と「高校生ではないひと」を明確に区分する。制服を着用することは、「高校生」であることを全身で発信している。そして、「高校生」とカテゴライズするのは、それなりの理由がある。「高校生」なる枠組みに入っているかいないかは、10代の生活に大きな違いをもたらしている。

 ところが、「高校」には、10代後半の若者のすべてが通うわけではない。「高校」に通ってはいても、典型的な「高校」に通っているわけではないひともいる。このことはしばしば無視されているが。「典型的な高校生」であることが当たり前のようになっている年代で、「典型的な高校生」ではないことは、痛みを伴う。「典型的な高校生」であるかないを、制服は明確に示す。制服を着用できない立場にあることは、痛みを伴う体験ともなりうる。その痛みの一部は、内田康弘「サポート校生徒は高校中退経験をどう生き抜くのか―スティグマと「前籍校」制服着装行動に着目して―」(『子ども社会研究』第21巻、日本子ども社会学会、2015年)に記述されている。

 「高校生」の枠に入るか入らないかが、10代後半の若者の生活に大きな影響を与えている。それっておかしくない?「高校生」って枠組みを問い直そう、できれば壊してしまおうってのがわたしの考えだ。冒頭の嬉野高校の新しい制服は、その「高校生」って枠組みを、もしかしたら壊すきっかけになるかもしれないと、そのような予感がした。わたしが「画期的」と述べたのは、このような理由があってのこと。

 記事を読んで考えた後に、神田神保町のテラススクエアのエントランスロビーで開かれている小野啓さんの写真展「NEW TEXT 2013-2019」を見てきた。「高校生」のポートレートが展示されている。ポートレートに切り取られた「高校生」の姿。ひとりを除いた全員が「制服」を着用している「高校生」。批評家らは、小野啓の作品が「若さ」を切り取ったことを見出す。それはそうだ。わたしは、そこに、もうひとつ、「高校生」であることを切り取ったことを見出す。単に若いだけではなく、高校に在籍し、高校で生活しているひとの一時を切り出した。「高校生」というカテゴリーが強力なものでなければ、小野啓の作品は違った形になっていた。

 そんなように、「高校生」なるカテゴリー、わたしはそのカテゴリーに入ることはもう生涯ないんだけど、そのカテゴリーについていろいろ考える1日だった。