ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

みんなが困りごとを持ち寄り、みんなで解決して、だれかの困りごとを切り捨てないこと

「政治」。この、なんとなく堅苦しく、なんとなく近づきにくい響き。

ここ数回、政治的な話を少し書いてきた。そんな中で、いちばん伝えたいのは、このnoteのタイトルに書いたこと。

みんなが困りごと、あるいは願いを持ち寄る。その困り事や願いを、どう解決し、どう実現するか、みんなで考える。そして、考えたことを実行する。誰かの困り事や願いを簡単に切り捨てないこと。これがいちばん言いたいこと。これが政治の基本だと思うんだ。

困り事や願いをどう解決したり実現する手段として、政府や自治体ってのがある。もちろん、政府や自治体を使って対処するのが不適切な場合もある。とはいえ、政府や自治体というツールを使って対処することは想像以上に多いはず。大きくは外交問題も政治だけど、駅前の自転車をどうするかも政治。

ひとつ重要なのは、だれかの困りごとを簡単に切り捨ててはならないこと。もちろん、だれかの困りごとを解決しようとしたら、別の誰かが困ってしまうこともあるわけで、そういう時はどちらを優先するか、よくよくみんなで考えないといけないんだけど。だけれども、「国益」や「公益」という、一見もっともらしく見えるけれども実際は何を言っているのかよくわからないような名目で、だれかの困り事や願いを切り捨ててはいけない。そういうよくわからないものを理由にして、だれかの願いや困りごとを切り捨てることから、悲劇は始まる。先の大戦で起きた悲劇の大半は、そうして生まれた。

政府や自治体、国家というのは、みんなの困り事などを、みんなで解決していくツールだ。だから、国家のために誰かの困りごとを我慢させるってのは、本末転倒。だれかの困り事を解消したり、だれかの願いを実現しようとしたら、別の誰かが別のところで困ったり、別の誰かが願いを実現できなかったりするのはままあって、そういう時にどちらを優先するか、冷静に熟議して優先順位をつけるのは仕方ないけれど。

最近、違和感を感じたネット上の声をふたつ紹介。

ひとつめ。

https://togetter.com/li/1403478

韓国からの観光客が減って、温泉地の人達が現実に困っているのに、「反日国家を相手にしていたから自業自得」的な反応が。よくわからない国益とか親日とか反日とかそういうものを大義名分に実際に困っている人を切り捨てる。いったい何のための「国益」なんだろう。みんなが豊かになることが「国益」じゃないの?「国益のためにみんなで貧しくなりましょう」ってのは、何のための国益だったのか、もう忘れ去っている。

ふたつめ。

https://twitter.com/CARPEFIDEMLLC/status/1164436890126184448

こちらは、さっきの例よりももっとわかりやすい。ひきこもりの当事者の困り事や願いを、いともあっさりと切り捨てている。いったいそれは何のために?誰の願いのために?ひきこもり当事者が生きることを肯定できない社会や政治に、何の存在意義があるの?この塾は、他にもいろいろツイートしているので、もしよろしければご覧ください。

誰かの願いや困り事に対処するという原点を離れて、あたかも「国家」という存在があるかのように振る舞い、「国家」のためならだれかが切り捨てられても仕方ないと考えるところ、常に悲劇が起きる。

「みんな」が願い事や困りごとを持ち寄り、「みんな」で考えなければならない。それこそが政治。「みんな」が、政治に背を向けたら、その空洞に「誰か」が入り、その「誰か」が、政府や自治体を自由に動かし始める。それを防ぐためにこそ、「みんな」が参加しなければならないんだ。