ふらふら、ふらふら

あっちこっちふらふらしている人間が何かを書いてます。

仮想空間はどこまで現実空間を置き換えられるか、ないし置き換えていいか。個人的な思い

 たまたま目に止まった内科医の佐々木淳さんのツイート。

  このツイートを見て、わたしは結構複雑な気持ちになった。知識習得だけならオンライン出いくらでもできるだろうが、コングレスの役割って知識習得だけじゃないよな、とか考えたのね。普段なら絶対に会わない人と新しく出会って深夜まで話すなんてのが起きるのがコングレスという場だと思ったの。もっとも、わたしが参加するようなマイノリティの集まるコングレスと、製薬会社から協賛金もらって虚飾だらけの学術集会と、たぶん佐々木淳さんは後者を想像したのだろうけど。後者のような集会なら、さっさとオンライン・バーチャル化しちゃっていいとは思うが。

 このツイートを見てからいろいろ妄想が膨らむ膨らむ。国道16号線のような道を、ギグワーカーたちが宅配のために走り回る。沿道には工場と倉庫しか並んでない。人々は、ほぼすべての時間をバーチャル空間で過ごすようになった。なんてディストピアまで思い浮かべてしまった。もっとも、このような生活をディストピアと呼ぶかはひきこもり界では意見が分かれそう。現実空間にいても苦痛ばかりだから、ならVRで構築されたときめきメモリアルの世界から出ないほうがいいと考える人はいるかも。

 昔、NHK教育テレビ(当時。今はEテレ)のドラマで、極めてよくできた仮想現実空間に、仮想現実とは気づかないまま浸り続け、ある時外部からの介入でやっと仮想現実空間にいたことに気づくなんてストーリーのものがあった。

 と、ちょっと思い出して、どこまで仮想現実に置き換えてしまっていいのか、わたしは大いにためらいを感じた。「現実」なるものにそんなに価値があるのかは議論が分かれるところだろう。仮想現実だろうと仮想じゃない現実じゃなかろうと、五感を刺激して(それこそよくできた仮想現実なら脳を直接刺激して)脳に何かを認識させるのは同じなんだから、現実なるものに価値などないとの考えにも一定の説得力は感じるが、わたしは抵抗を覚える。それこそこれから倫理学者が検討する課題だろう。

 ただ、わたしは、そういう仮想現実の広がりに、ある種の恐怖感を覚える。というのも、1990年代の終わりから2000年代の終わりまで、仮想じゃない現実に出ることができず、空想というそれこそ仮想現実の中にこもるしかない時期があった。仮想現実の中にいることをしばし忘れた時だけは仮想現実を楽しんだが、ひとたび仮想現実であることを思いだすと一気に恐怖が襲ってくる。そんなころには戻りたくないとの個人的な理由。