ふらふら、ふらふら

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ファクトなき政治は市民を殺める―ファクトを共有しなければならない

 峰宗太郎さんのツイート。

 「政府の方針に従う」ことを無条件に「よいこと」としているのに違和感を覚えた。政府とて利害当事者であって、政府の方針とやらが間違っている可能性だってある。それを監視する仕組みの議論もなしに、「政府の方針に従う」ことを無条件に「よいこと」としてはならない。「政府の方針に従う」ことが「よいこと」なのは、「政府の方針」がファクトに基づいているときだけである。ファクトに基づかない「政府の方針」がどんな悲惨な結果を招いたかは、先の大戦の時に十分体験したはずである。情報の共有こそが何よりも重要。それなくしてまっとうな政治は行えない。ところが、どこの国でもそうなんだろうが、行政の仕事が広がり、行政が情報を囲い込む一方、国会にはあまり情報が開示されないなんてことが起きている。これでは政府がファクトに基づいて方針を打ち出しているかの監視などできない。

 また、これは今回の記事の論旨からは外れるが、行政が情報を一手に囲い込んでいることは、行政の情報に自由にアクセスできる現与党に極めて有利な立場をもたらす。その一方で、行政の情報にアクセスできない現野党を極めて不利な立場に立たせる。野党は、不十分な情報しかない状況で、政策立案をしなければならない。これがどれだけ不利な立場であることか。

 であるから、行政が持っている情報を、国会、その背後にいる市民にきちんと公開する仕組みを動かさなければならない。国会がありとあらゆる情報を集めることを目的として設けられたのが国立国会図書館であるが、国会図書館もあまり国会議員のブレーンとしての機能を果たせてない。国会議員の、そして市民のブレーンとして、国会図書館の機能をもっと強化しなければならない。そのためには予算を増やし、人員を増やし、それも専門的な知識を持つスタッフをそろえなければならない。これと併せて、情報公開法も強化しなければならない。今の政府のように、都合の悪い情報を公開しないで済んでしまっているような情報公開法はザル法である。これも改めなければならない。

 先の大戦のあと、国立国会図書館法を作った議員たちは、ファクトなき政治がいかに悲惨な結果をもたらすかを痛切に知っていた。その反省が、国立国会図書館法の前文に結実している。

 国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。

 この前文は、今も全く古びていない。それどころか、ますます重要性は増している。真理=ファクトに基づく行動こそが、わたしたちに自由をもたらす。そのことを踏まえたうえで、ファクトを示す情報をどうやって共有するか、真剣に考えなければならない。